百万石!加賀前田家 特別展 | 期待以上の内容でさらに興味が湧いてきた

2026年5月1日

以前、金沢を初めて訪れた時に、金沢という街の美しさ、センスの良さに感心して以来、加賀百万石・前田家にはずっと興味を持っていた。

そして、今年1月に加賀温泉や九谷焼美術館を訪れて、さらにもっと知りたいという気持ちになっていたので、今回の特別展の前売りチケットは1月にすでに購入して、満を持して上野の東京国立博物館に出かけた。

パンフレットにも「蒐め、守り、伝えた」とあるが、戦国時代に出世して前田家を興した、初代前田利家の時代からの貴重な品々を、よくぞここまで綺麗な状態で守り現代に伝えてきたな、と驚いた。

今回の特別展はごく一部を除いて写真撮影が禁止だったのがとても残念だが、致し方ない。

私がまず目を奪われたのは、入口を入って左側に並ぶ、陣羽織の数々である。↓
第三代藩主・前田光高所用のものから、加賀藩最後の第十三代藩主・前田慶寧(よしやす)所用のものまで、全部で歴代16枚が展示されていた。

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そのデザインや色使いが素晴らしく、全く古臭さを感じないうえに、「切嵌(きりはめ)」という、ある素材の一部を切り抜き、そこに別素材を正確にはめ込んで模様や絵柄を表現する伝統的な装飾技法が使われていて、色使いのセンスといい、その仕上がりの美しさといい、ずっとこの前に立って眺めていたいと思わせる素晴らしさだった。

さらに言えば、現代に至るまでの長い間、これらの歴代の陣羽織を散逸させることなく、かつこの素晴らしい品質を劣化させることもなく、代々管理してきた前田家に、恐れ入りましたという気分になった。

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なお、上の画像は以下のサイトからお借りした。

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尾張国に生まれた初代・前田利家は、身長が6尺(180cm)もあった大男だったようで、若い頃は派手な身なりをした「かぶき者」だったらしい。また、血気盛んで勇猛な槍の使い手として知られ、槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていた、とのことだ。

さらに、戦の際に手段を選ばない利家の残忍さも恐るべしである。越前の一向一揆の鎮圧にあたっては、小丸城(福井県越前市)から昭和7年(1932)に出土した瓦に、5月24日に一揆が起こり、利家が一揆衆を千人ばかり生け捕ったうえで、磔(はりつけ)や釜煎(かまいり)で処刑した、という文字が刻まれている。↓

今月のよもやま話

利家は、失敗をして信長から一度は勘当されたものの、その後の戦さで手柄を立て、信長に認められて出世したわけだが、こういう話を聞くと、利家は信長に似ていたのではないかと感じる。もっとも、これくらいの豪傑でないとあの戦国時代に出世して加賀前田家の基盤を作ることなど出来なかったのだろうと思うが。

その利家が、本展覧会のパンフレットにも出ている、キンキラキンの甲冑を着て、馬上にまたがり、戦場に姿を現す様子を思い浮かべると、さぞかし迫力があり、味方にとっては非常に心強く、敵から見ると相当な脅威であっただろうと想像できる。兜の先が長く伸びているのは、身体を大きく見せるために、わざわざあのように細工をしたようだ。

こうして利家が基礎を作ったわけだが、初期に加賀百万石の基盤を完成させたのは、利家(初代)〜利長(二代)〜利常(三代)の3人の時代の最後の頃だったと感じる。

そもそも加賀藩の百万石というのは外様大名でありながら、当時ダントツの一位だったわけだ。
正確には加賀藩としては102.5万石らしいが、三代利常の時代の寛永16年(1639)に分藩した富山藩10万石、大聖寺藩7万石を加えれば、実質的には119万石以上あった。

一方、その下はというと、2位が薩摩藩島津家の72.9万石、3位が仙台藩伊達家の62.6万石で、50万石を超えたのは6つの家だけ、しかもうち2つは将軍家の親戚家だったという状況である。

織田信長から豊臣秀吉、さらに徳川家康と為政者が変わる中で、時代の流れを読み、いかにうまく立ち回るかを考え、人質を差し出したり、親戚関係を結んだりした結果の百万石であることが分かってきて、改めて、百万石の加賀前田家すごいなと思った。
このあたりの立ち回り方については、以下のプレジデントオンラインの記事が非常にわかりやすくて面白かった。↓

なぜ江戸時代に加賀藩だけが百万石だったのか…前田家の家系図を見ればわかる当主たちの涙ぐましい努力 家康から排除されそうになった2代・利長の機転
豊臣秀吉政権下では五大老の一人だった前田利家を祖とする加賀藩前田家。なぜこの家だけが江戸時代で百万石もの石高を誇ったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「そこには歴代当主たちの徳川家との良好な関係を築くための配慮と遠慮があった」という――。

初代利家から二代利長に至るまでの歴史で私が気になったのは、関ヶ原の戦いの際に、利長は勝った東軍についたのだが、利長の弟の利政は、負けた西軍についた(というか、おそらく正確には東軍にはつかなかった)という事実である。

利家が、前田家存続のために、どちらか一方につくのではなく、東軍西軍どちらが勝っても前田家が生き残るように、息子たちをそのように配したのではないか、と直感的に思ったのだ。
だが、色々調べてみたが、どうもそういうことではなかったようだ。
まず、利家が死去したのは1599年、一方、関ヶ原の戦いは1600年なので、利家が戦いが起きた時点で直接指示するのは無理であった(遺言でも残していたなら別だが)。
諸説あるようだが、利政の妻子が石田三成の人質に取られて大阪にいたので、利政としては東軍につくことは出来なかった、ということだったのではないかと思われる。
そのあたりについては、以下のサイトに記事がある。↓

関ヶ原合戦後に改易された前田利政は、なぜ西軍に味方したのだろうか?(渡邊大門) – エキスパート – Yahoo!ニュース
今でも兄弟姉妹が仲違いすることは珍しくないが、それは戦国時代でも同じである。関ヶ原合戦において、前田利長は東軍に味方したが、弟の利政は西軍に与したので、戦後は改易された。なぜ、利政は西軍に与したのか

結局、関ヶ原の戦いののち、前田利政は改易処分(武士の身分を剥奪され、領地や城、屋敷などの財産をすべて没収され家が取り潰される処分)を受けたのだが、興味深いのは、調べてみるとあまり厳しい処分ではなかったのではないかと思われる点だ。

領地は没収されたが、引き継いだのは兄の利長で前田家としてはプラスマイナスゼロ。
また、利政はその後も前田家の庇護を受けていたようで、京都嵯峨野に隠棲し、宗西、宗悦と名乗り、多くの美術工芸品を残した本阿弥光悦とも交流があったようで、寛永10年(1633)に没するまでの間、文化人としてそれなりの暮らしが出来ていたということのようだ。また、利政の息子の直之は三代・前田利常に仕え、前田土佐守家の祖となっている。
前田土佐守家については以下参照。↓

前田土佐守家について | 前田土佐守家資料館

どうも家康も、外様とはいえ百万石の巨大勢力である前田家(北陸)が不安定になることは好まず、政治的にうまい落とし所になる着地点を探した、また、前田家も利政や息子の直之をきちんとケアし、処遇した、ということかと感じた。利政の京都での隠棲については、家康と利長の間で当時何らかの合意があったうえでのことだったのではないかと勝手に想像している。
直之は幼少の頃から祖母の利家夫人のまつ(芳春院)に預けられて養育されたようで、直之を利常に仕えさせたのは、まつの尽力によるものだったようだ。まつは、二代・利長が家康に謀反の疑いをかけられた時に自ら人質となって江戸に行ったりもしており、前田家のために奔走した大した女性だったのだなと感じた。

二代・利長の後を継いだ、三代・利常も非常に興味深い。
利常は、初代・利家の正室・まつの子供ではなく、側室東丸殿(寿福院)が産んだ、利家56歳の時の子供である。彼女は下級武士の娘で本名を千代といい、侍女として前田家に入り、利家の身の回りの世話を務めた際にその美貌を見初められ利家が手をつけて懐妊し、側室となったという経緯のようだ。

利長には嫡男がいなかったため、利常が後を継ぎ三代となったのだが、先に引用したプレジデントオンラインの記事にある系図と記事を改めて以下に引用させていただくと、利常という人物が、その後に百万石を代々繋げる加賀前田家にとって非常に重要なキーマンだったと感じた。
仕組んだのは利長なのだが。

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利長が巧妙だったのは、関ヶ原合戦の直後、(利長の)養子にしたての利常と、徳川家康の嫡男、秀忠の娘の珠姫との結納を交わし、翌年、金沢に迎え入れたことだ。その時点で利常は数え8歳、珠姫は同3歳にすぎなかった。しかし、この結婚により、利家の庶子だった利常は、将来の将軍の甥であるばかりか、秀忠の長女の千姫が嫁いだ豊臣秀頼の義弟になり、同じく五女和子が嫁いだ後水尾天皇、すなわち将来の皇后の義兄になり、さらには将来の将軍たる家光の義兄になったのである。

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三代・利常の時代には興味がある。
なぜならば、私が好きな九谷焼を始めたのは、利常の三男で大聖寺藩を分け与えられた利治だからだ。↓

新春の福井加賀を巡る② | 加賀山中温泉〜鶴仙渓 | 九谷焼美術館で知った古九谷の謎は興味深い
旅の二日目は、加賀山中温泉を出て、有名な鶴仙渓を散策し、加賀市大聖寺に移動して、石川県九谷焼美術館で、私の好きな「青手」の九谷焼を鑑賞した。九谷焼の歴史、特に古九谷については、謎めいた部分があり非常に興味深い。

利常は1939年に次男の利次に富山藩10万石を、利治に大聖寺藩7万石を分け与えると同時に自らは隠居して(44〜45歳の時)、後は四代・光高に継いだらしいが、この頃に加賀ルネサンスと呼ばれる華麗な金沢文化が開花したらしい。
その流れで九谷焼が創始されたのは間違いない。

利常は政治家としても優れていたようで、「政治は一加賀、二土佐」と称えられたようだが、鼻毛を伸ばしたり立ち小便をしたりして「うつけ」を演じ、徳川家との緊張を緩めることに尽力したようだ。おそらく利常は、徳川の時代に前田が生きていく道は政治ではなく文化であると、政治には興味がない文化大名に徹することが前田家を守る最善の戦略であると、考えたのではないだろうか。

徳川家を鼻毛で翻弄? 前田利常のかぶき者伝説
「かぶき者」として知られる加賀百万石の前田家初代当主、前田利家。そんな利家のかぶいた血を、もっとも濃く引き継いだのが3代目当主で、加賀藩2代目藩主の前田利常です。名君か暗君か? ときに鼻毛を、ときに股間をさらしたと言われる利常の奇天烈な行動…

上の記事にも書かれているが、以前に金沢を訪れた時に非常に印象的だったのが、金沢の妙立寺(通称忍者寺)である。↓
最初は「忍者寺」と聞いて、正直バカにしていたのだが、ガイドツアーに参加して、落とし穴やら色々な仕掛けがあることを知り、このお寺に隠された真意、すなわち、徳川から万が一襲われた時の防衛(出城)の意図を理解して、当時、前田家はそこまで常日頃から徳川を警戒していたのか、ということを理解してびっくりしたのだが、それが今になってやっと分かってきた気がする。

謎と驚きに満ちた通称「忍者寺」~妙立寺~ – 金沢について
由来・見所 | 日蓮宗/正久山 妙立寺(忍者寺)
忍者寺として知られる金沢市の妙立寺。そびえ立つ屋根、その上の望楼、武者隠しのある本堂、数多くの隠し階段、切腹の間、そして落とし穴まで様々な仕掛けのある寺です。

上記のサイトにはお寺の紹介として以下の記載がある。↓
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日蓮聖人の法孫・日像上人作の祖師像を安置する。寛永二十年(1643年)、三代藩主前田利常公の命により、城内にあった祈願所を移し、運上町に創建された。前田利常は当時すでに隠居し小松に居を構えていたが、四代藩主光高の後見人として依然としてその権力の座にあった。当時、加賀藩は百万石の禄高を誇る外様大名の雄として徳川幕府から常に監視下に置かれ相当の緊張状態にあった。実際、幕府内では加賀征伐の計画すら存在したという。こうした背景にあって、利常は金沢の街をはじめとして、幕府の軍勢を迎え撃つ為の態勢を整えていった。
金沢城を挟む犀川と浅野川を自然の濠に見立て、両河川の外側に寺院群を移築し、城の防備とした。特に、犀川は川幅もあり、寺町台からは急な斜面となり、しかも現在の犀川大橋以外には橋を架けることなく渡し船を用いた。これは、福井方面からの幕府軍勢の侵攻を想定したもので、金沢城が直接攻撃される以前に寺町台で迎え撃つとの計画に基づき、寺町寺院群に出城の役目を持たせたものといわれる。
その中で、当山は短期間に能登石動山、新竪町そして現在地へと移転が行われ、寺町寺院群の中では比較的遅い時期に(1650年代)に移築された。以降、前田家の祈願所として歴代藩主自らが参詣し、武運長久と庶民の安穏を祈願した。また一方では、万一の場合の出城として、その中心的役割を持たせたと言われる。そのため、建物全体が迷路状となり極めて複雑な構造を有し、今日では『忍者寺』の別称持つ。
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政治の話から文化の話に戻る。

これで九谷焼が創始された時代の頃の歴史の流れはなんとなく分かってきて非常に納得感があるのだが、残っている問題は、なぜ1655年頃に創始された九谷焼が1710年頃に突然なくなってしまったのか、という点である。

「加賀九谷」について
加賀九谷というプライド。 九谷村から始まる「加賀九谷」の歴史。吉田屋により再興され、山代の地に移されて以来、その窯は脈々と引き継がれ、その系譜は現在に連なっています。古九谷から続く九谷焼本流の誇りを胸に、私たちはこの地で日々、腕を磨いていま…

この点については、上記のサイトの以下の記事がひとつの納得感のあるヒントである。
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途切れなかった古九谷の技
九谷古窯が18世紀初頭に突然操業を止めた理由は、いまだ謎のままです。
ある文献で「制禁」という表現がされていることから、何らかの圧力があったことも伺わせます。一説には、島原の乱の際に追放された有田のキリシタン陶工を九谷村が匿っていて、それに気づいた徳川幕府が生産停止を命じたというものがあります。十字架や葡萄酒を連想させる絵柄の存在がその根拠とされます。
そして、その事実を掴んだのは、その当時「奥の細道」の道程でちょうど加賀に訪れていた、実は幕府隠密だった松尾芭蕉だという話もあります。
一方、その後およそ100年もの空白期間があったにもかかわらず、吉田屋窯が古九谷の復興を華麗に成し遂げたことを訝しがる指摘もあります。これに関しては、実は領内でひそかに生産が続けられていて、技術の継承が途切れなかったという説もあります。いずれも想像の域を出るものではありませんが、考えるとワクワクするする話ともいえるでしょう。
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ここでキリシタンが登場してきた。先日長崎に行ってキリシタンの歴史を改めて学び、当時の有田を含む長崎近辺と接点を持っているということは、加賀前田家にとっては、対徳川家という点で、キリスト教や外国との接点に関わる嫌疑をかけられるリスクが大きかったに違いないと感じる。

前回の長崎の旅で学んだのだが、戦国時代のキリシタン大名として名高く、最後は1615年にフィリピンのマニラで逝去した、高山右近(たかやまうこん)は豊臣秀吉の伴天連追放令(1587年)により自ら領地を返上した後、前田利家が「武勇だけでなく茶の湯にも長けている」と秀吉にとりなし、前田家お預けという形で客将として前田家に迎え入れられ、1588年から加賀国(現在の石川県)で約25年間を過ごしたとのことだ。

右近は「利休七哲(りきゅうしちてつ)」のひとりに数えられるほどの茶人であり、前田利長とは茶道を通じて強い絆で結ばれていたとのこと、また、加賀前田家にいた際は、領主としての立場だけでなく、キリスト教の布教も領内で保護されていたようだ。右近の指導のもと、金沢の教会は日本で最も栄えた教会のひとつとなっていたらしい。ということは、当時、加賀藩(金沢)もキリシタンの拠点として秀吉や家康から相当マークされていたと考えるべきであろう。↓

キリシタン大名・高山右近
「高山右近」(たかやまうこん)は、最もよく知られるキリシタン大名のひとりです。セミナリオ(神学校)を開設するなど、キリスト教の布教を保護しましたが、豊臣秀吉によりマニラに追放され、再び日本に戻ることなく熱病でこの世を去りました。キリスト教に…

あの天草四郎の島原の乱が起きたの1637-1638年である。慎重な前田家のスタンスから考えるに、徳川幕府から直接の脅しがあったわけではないが(歴史に残っている限りにおいて)、創始者の利治もすでになく(1660年に43歳で逝去)、前田家をいかに守るかという優先順位を考えた時に、金食い虫でもある(お金がかかり当時はすぐにリターンが望みにくい)、かつキリシタンとの関わりに疑念を持たれる恐れもある、九谷焼を頑張って継続するという選択には残念ながらならなかったということではなかろうかと思う。

しかし、その後約100年の空白期間ののちに、吉田屋窯が古九谷を復興したというのは、たしかに不思議で、「実は領内でひそかに生産が続けられていて、技術の継承が途切れなかったという説」にはロマンを感じるし、その説を信じたいなと思う。
「古九谷の謎」についての私の思索の旅は、これにていったん集結である。

さて、加賀百万石の文化の話に戻るが、今回の特別展を見て、その文化を現代に存続せしめた功労者として五代の綱紀を外すわけにはいかないなと感じた。

綱紀は四代・光高が31歳の若さで亡くなったためわずか3歳で家督を継ぐことになり、祖父の利常が後見した。そして、綱紀が結婚したのは、名君の誉高い保科正之の娘。これも、利常が保科正之の人物を見込んで、その娘を綱紀の結婚相手に選んだようである。そして、利常の死後、綱紀は保科正之の思想に大きく影響を受けたようだ。

綱紀は学問を好んだようで、理路整然とした几帳面な性格であると同時に、記録魔・整理魔であったようで、それが結実したのが、今回の特別展の目玉のひとつである、工芸技術や素材の標本集(見本帳)「百工比照(ひゃっこうひしょう)」である。

百工とは諸種の工芸、ないしは工匠の意味であり、比照とは比較対照するという意味、だそうだ。

加賀殿再訪

特別展の場で実際に目にして、よくこんなものを整理してまとめようと思ったな、とまず感じた。何を対象に、それらをどのようなやり方で整理し比較対象するのか、ということを考えて、フレームワークを作ることを想像しただけで、私などはぐったりである。綱紀が整理魔であったからこそ出来たことであろう、そして、この時代にこのような整理をしたことが基盤となって、石川県が工芸王国となったのか、と納得した。

もう一人の功労者と私が感じたのは、十六代の前田利為(としなり)である。
その功労とは、財団法人・前田育徳会を設立し、前田家の財産を財団に移したことである。

前田育徳会は、1926年(大正15)2月26日に設立された。その3年前に発生した関東大震災により多くの文化財が消失し、前田家所有の文化財も危うく戦火で失いかねない状況だったことを憂慮し、前田家伝来の文化財を保存し後世に伝えていくため、利為が財団の設立を計画したものとのことだ。
当初は、前田家が所蔵する古典籍の複製刊行を主な目的にしておたが、その後前田家より所蔵品の寄贈を受け、収蔵品の保存と公開を目的とする公益法人となったという経緯である。

また、前田育徳会の通称は「尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)」というそうで、これは、設立者前田利為が、前田家五代当主前田綱紀(つなのり)が収集した書物である「尊経閣蔵書」にちなんで命名したとされているとのこと。

前田育徳会について | 公益財団法人前田育徳会

前田家の個人財産のままだったら、相続税、財産分割、戦災等によって、散逸していった可能性もあったとのことで、素晴らしい判断だったなと感心した。

もっとも、その財団設立に至る前に、十四代の前田慶寧(よしやす)が、幕末から明治維新への移行期を良く乗り切って前田家を守ったなと思う。

ひと言で表現するなら、幕府側にも倒幕派側にもつかず中立的立場を維持し、前田家を守ることを最優先にしつつ、倒幕派が主導権を握るとすぐに新政府側についた、ということなのだが、この局面をなんとか上手く立ち回れたことが、明治維新後に、前田家は華族として侯爵の爵位を授与されることにつながり、華族として明治以降も生き残れたことが、財産を守ることに大きな意味を持ったことは間違いない。

今回、初めて知って驚いたのは、東京・本郷の東京大学の敷地というのは、もともと、加賀藩の藩邸があった場所だということだ。10万坪以上の敷地があったが、明治4年に明治政府の命令で約9万坪が文部省用地とされ、明治19年には東大本郷キャンパスとして使われ始めたようだ。一方、前田家は残りの1万坪の敷地に私邸を残していたが、大正15年に東京大学と前田家の間で土地交換が行われ、大学側は前田家に駒場の農学部敷地などを提供し、前田家の本郷敷地内の建物や庭園(育徳園心字池、現在の三四郎池など)も大学へ譲渡されることになったとのことだ。

また、東大のシンボルとして有名なあの赤門も、もともとは加賀藩邸の赤門であったことを知り、加賀百万石恐るべしとの思いを新たにした。将軍・徳川家斉の娘の溶姫を、前田家十三代・斉泰の正室として迎え入れる際に建てられた御殿の正門である「赤門」が、あの東大の赤門なのだそうだ。

そして駒場に移った前田家が、十六代前田利為の時(昭和5年)に作った前田侯爵邸がまたすごいようだ。↓ まだ行ったことがないので今度訪問してみたい。

利為は、歴代の前田家の当主の中でただ一人の養子、十五代当主前田利嗣の一人娘漾子(なみこ)と結婚することを条件に15歳で旧七日市藩前田家から入籍。
政治家を志すが、利嗣の妹・慰子の夫、有栖川宮威仁親王に「大名華族の筆頭である前田家の当主は、帝国軍人としてご奉公すべきだ」と申し渡され、陸軍士官学校に入学することとなった。同期に東條英機がいるが、東條とはそりが合わなかったようだ。
陸士卒業後、定員50名の難関、陸軍大学校に最年少で合格。三番で卒業して恩賜の軍刀を授かったとのこと。その後、ドイツに留学、さらにイギリスに渡り、その後、陸軍の要職を務め、1942年(昭和17年)4月、ボルネオ守備軍司令官に任命され、同年9月5日 、ボルネオ沖で搭乗機が遭難し(原因不明)戦死されたとのことなのだが、おそらく、本当のところは軍人などにはなりたくなかったのだろうな、と勝手に想像している。

そして、現在の十九代当主が前田利宜(としたか)氏である。大学卒業後、三菱商事に入社、海外駐在も経験された後、現在はイノダコーヒの社長を勤めておられる。

利宜氏によれば、利為は生前、先祖伝来の品々を紹介する博物館を開館する目標を持っていたとのことで「不運にも戦死し、絶たれてしまった利為公の夢が一部とはいえ、今回の展示でかなったのではないか」と。

加賀百万石・前田家にはずっと興味を持っていたが、今回の特別展に出かけて、さらに色々自分で調べる中で、さらに興味が湧いてきた。

感謝である。

おわり

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