長崎_島原_雲仙_有田の旅④ | 古九谷とは |九州陶磁文化館〜アリタセラ〜鍋島藩窯: 伊万里大川内山

2026年3月22日〜25日

前回からつづく。

旅の最終日の今日は、有田・伊万里近辺を巡る。

今年の1月に加賀を旅した時に、九谷焼美術館を訪れたり調べたりして、私が好きな古九谷のルーツは有田にあることは確認した(※)ので、今回は、実際に有田を訪ねて、何かさらなるヒントを見つけられないかと思っている。

※加賀藩の分家である大聖寺藩の初代藩主・前田利治は、九谷村から磁器の原料となる陶石が産出されることを知り、茶人でもあった彼は、この陶石で磁器を生産し、藩の産物にしようと考え、後藤才次郎を磁器製作の先進地・肥前国有田に派遣し、作陶技術を学ばせた。

まず最初は、佐賀県立九州陶磁文化館を訪問。↓

佐賀県立 九州陶磁文化館
肥前の陶磁器をはじめ、九州各地の陶磁器に関し、その文化遺産の保存と陶芸文化の発展に寄与するため、歴史的・美術的・産業的に重要な資料を収集・保存・展示し、あわせて調査研究や教育普及の活動を行うことを目的として設立されました。

到着して、トイレに入ったら、綺麗な磁器に囲まれてびっくり。さすが有田。↓

有田焼の原点 ↓

「有田焼が大きな発展を遂げた理由の一つに、原料となる良質な陶石を豊富に産出する泉山磁石場の存在があります。しかし、有田西部で最初の磁器生産が始まった頃は、泉山陶石はまだ発見されておらず、周辺の他の陶石が原料に用いられたようです。
初代金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)をはじめとする創始期の陶工集団が泉山磁石場を発見した後、最初に築いたとされる近隣の天狗谷窯は、窯跡の発掘調査で1630年代に磁器を中心に生産する窯として始まったことが明らかになっています。このことから、有田焼の創始から少し遅れて泉山磁石場が開発されたものと推測されます。」

朝鮮陶工たち ↓

「豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592~1598)に加わった九州・山口の大名・武将が自分の領地に朝鮮半島から陶工を連れ帰ったことで、各地に陶磁器産地が興りました。佐賀藩の場合、家老の多久(たく)家に預けられた後、多久で陶磁器生産に従事していた初代金ヶ江三兵衛(日本に来る前の名は不明)が、ロクロの技術を持つ者など多くの陶工を連れて1616年(元和2)に有田に移ったと言われています。ほかにも武雄から一族を率いて有田に移った百婆仙など、朝鮮陶工集団が有田焼の創始期を担いました。」

金ヶ江三兵衛の朝鮮名を李参平(りさんぺい)と書いてある資料もあるが、ここでは不明と説明されていた。

皿山体制の確立 ↓

「1637年(寛永14)、佐賀藩は山林保護を理由に伊万里・有田の窯場を整理しました。これにより有田皿屋(後の有田山)から陶器生産が消えて磁器生産のみとなり、泉山磁石場に近い有田東部の内山地区がその中心となりました。佐賀藩は磁器生産という新たな産業に目を付け、皿山代官を設置して技術や資源の保護と統制を行うことで特産品の育成と税収の増加を図ったのです。
こうして有田内山を中心とする磁器専業の産地を佐賀藩が保護・管理する体制が確立されました。」

上記の説明には「山林保護を理由に」とあるが、色々調べた限り、実際は品質を高めるために整理をしたということのようだ。京都知新の「伊万里焼と古九谷焼1」という記事にも、最初からいきなり完成度の高い伊万里焼が世に送り出されたはずがなく、まだこの頃は、唐津焼の窯と同じ窯で焼成されていて、くすんだ灰色無地や、単純な絵付けの染付の磁器を焼きながらの試行錯誤が続き、事業としても採算が合っていなかったと考えられる、と書かれている。

この後、有田の磁器生産が飛躍的に発展出来たのは、(朝鮮陶工でなく)中国からの技術の導入と改良によるものだったようだ。日本初の色絵磁器を生み出し、成形・絵を向上させたことで、中国磁器にせまる高品質の製品を生産できるようになったということなのだが、背景には、明の滅亡があったと知り合点がいった。

京都知新の「伊万里焼と古九谷焼2」にも以下の説明があり、非常に分かりやすかった。

「まず大きな歴史的出来事と言えば、明の滅亡です。本来なら伊万里とその商圏を争うはずだった中国製磁器が1644年を契機に、生産量を激減させていきます。それは日本だけでなく欧州に向けて輸出される製品にも影響を及ぼしていきます。
その原因は、この年に漢民族の明(みん)が滅んで、満州族の清(しん)が建国されるからです。明が滅亡に向かう直前は、広がる社会不安の中、中国から陶磁器の技術を持った人々が難を逃れ、伊万里に多く渡ってきたと思われます。
このことは朝鮮半島の職人たちがそれまで担ってきた伊万里の指導的な立場を一変させ、中国人による指導体制の導入が行われたと考えられます。1616年の開窯以降、品質向上や安定した製品を供給するまでに、予想以上の時間を要していたことは、伊万里を運営していた鍋島藩の財政に相当な負担になっていました。この極東アジアの政変は伊万里に大きな発展をもたらし、急激な品質の向上をも叶えることになるのです。」

そして、明時代の中国の景徳鎮を手本にして、色絵技術の導入が進んでいったという歴史である。

今回、有田(日本)における「赤絵(色絵)の始まり」に関する、以下の説明を読んで、「そうか、お金を払って中国人に教えてもらったのか」と納得出来た。
昨年、伊万里焼と鍋島焼の宝庫・栗田美術館(足利)を訪問して以来、ずっとモヤモヤしていたのだ。
しかし、教えてもらった場所が長崎であったと知り、長崎という街の持つ意味は大きかったとここでも改めて感じた。

「有田焼の隆盛につながった色絵の技術は、朝鮮半島ではなく中国からもたらされたものでした。初代酒井田柿右衛門とされる喜三右衛門が記した赤絵初り(はじまり)の「覚(おぼえ)」によれば、伊万里商人の東嶋徳左衛門(ひがしじまとくざえもん)が長崎で「しいくわん」という中国人に礼銀を払って技術を習い、その後、喜三右衛門らが工夫を重ね開発に成功したとされています。この史料からは色絵技術を中国人から学んだことや、その導入に商人が深く関与したことがうかがえます。」

柿右衛門と鍋島 ↓

肥前の磁器は17世紀後半にさらなる技術発展を遂げ、日本磁器の双璧と言われる「柿右衛門様式」と「鍋島様式」が完成しました。
「柿右衛門様式」はヨーロッパの王侯貴族や日本の大名家などへ向けた高級品として民間の窯で作られました。一方、洗練された技術とデザインを誇る「鍋島様式」は将軍家への献上を目的として佐賀藩直営の藩窯で作られました。

「「柿右衛門様式」は、柿右衛門家を中心に有田の南川原山で作られた可能性が極めて高い「典型的な柿右衛門様式」と、その影響を受けて主に有田内山(ありたうちやま)で作られた「広義の柿右衛門様式」に分けられます。

「典型的な柿右衛門様式」の特徴は、「濁手(にごしで)」と呼ばれる青みを徹底的に取り除いた釉薬を薄く施した乳白の素地に、余白を生かして繊細に描かれた和風の文様描写の色絵です。色絵には赤、緑、真、黄、黒、紫魚のほか、わずかに金も用いられます。
成形に型打ちを用いた薄く精巧な皿や鉢のほか、板作りを用いた六角壷や瓶なども作られました。
一方「広義の柿右衛門様式」の特徴は、濁手素地より青みが強く、ロクロ成形だけで作られたものや、染付が用いられた素地も多く見られることです。色絵には余白が少ない製品も見られます。」

十角皿も婦人像もなんとも美しかった。↓
皿は典型的な柿右衛門様式の作品とのことで、乳白色の濁手素地に余白を取って描かれた獅子や牡丹が映えます、色絵は赤、青、緑、黄、黒のほか、金を花の一部に使っています、との説明があった。

こちらは鍋島について ↓

「「鍋島様式」は、輸人が中断された中国・景徳鎮磁器に代えて佐賀藩主鍋島家が将軍に献上するために開発された製品です。
当初は有田の岩谷川内(いわやかわち)で作られたと考えられますが、寛文年間(1661~1673)頃には伊万里の大川内山(おおかわちやま)に移り、本格的に生産されました。元禄~享保年間(1688~1736)頃に最盛期を迎え、1871年(明治4)の廃藩置県まで続きました。
鍋島様式は、佐賀藩直営の藩窯で技術の漏洩を厳しく制限するなか、藩の威信をかけて採算度外視で作られました。そのため高度に洗練された技術とデザインは日本磁器の最高峰に位置付けられます。」

「鍋島様式の主な器種は食器です。18世紀に将軍家へ毎年献上された食器の内訳は、鉢(1尺)2個、大皿(7寸)20個、中皿(5寸)20個、小皿(3寸)20個、猪口など20個の5品でした。格式の高い器であるため、鉢と皿は高台の高い木盃形(もくはいがた)に作られました。
文様は植物を中心に鳥や器物、幾何学文様などが描かれ、均一な線描と大胆なデザインが特徴です。染付には、「墨弾き」による白抜線や、繊細なグラデーションによる「ほかし濃み」が用いられ、高度な染付技法が完成しました。色絵には基本的に赤、緑(薄青)、黄の3色が使われました。」

1693年(元禄6)、佐賀藩二代藩主鍋島光茂が有田皿山代官(ありたさらやまだいかん)に宛てた指示書 ↓

「献上品が毎年同じでは珍しくないため民間の窯で珍しいデザインがあれば採り入れること、民間の窯に腕のいい職人がいれば藩窯で働かせ、以前から藩窯に勤める職人でも下手な者はやめさせることなど、品質向上のために様々な指示が出されています。
こうした厳しい求めにより藩窯製品の技術とデザインはさらに完成度を高め、日米蔵器の最高峰とも評価される格調高い「鍋島様式」が確立しました。」

色絵芙蓉文大皿 ↓

「最盛期の色鍋島。口径30cmほどの色絵の尺皿は少なく貴重な作品。50片以上に割れた破片を漆などで接合されていましたが、2014年(平成26)に最新の技術で解体修復し往時の姿が蘇りました。部分は同じデザインの重要文化財の類品を元に復元されています。」

染付銀杏唐花文皿 ↓

「複雑な唐花紋様を墨弾きや濃みを駆使し高度な染付技法で表現した作品。唐花の背景の地紋には銀杏の葉、外側面には七宝繋文、高台には櫛歯文が描かれています。鍋島様式には線の下書きに現在のカーボン紙のような仲立ち紙(なかだちがみ)が用いられ、デザイン化された文様を組皿に精巧に絵付けすることが出来ました。

上記の解説があったが、太字部分については、どのようなやり方なのかもっと詳しく知りたいと思った。

時間の経過とともに、中心に写っている皿に、花の色文様が描かれていく様子がとても美しかった↓

有田焼の海外進出 ↓

「中国での明から清への王朝交代に伴う内乱と、明の遺臣の海上勢力を経済封鎖するために行った貿易制限の結果、17世紀中頃、中国磁器の世界への輸出量が激減しました。中国磁器を重要な貿易品としていたオランダ商人はその代わりとなる磁器を他に求め、この頃には既に中国磁器の品質にせまっていた有田焼が選ばれました。
この有田焼の輸出時代はおよそ100年間続き、有田の磁器産業が大きな発展を遂げた時代となりました。」

欧州に与えた影響

「ヨーロッパでは、ドイツのマイセンで磁器の焼成に成功する1709年まで磁器は製造されていませんでした。そのため、はるばる中国と日本からもたらされる東洋の磁器は、長らくヨーロッパでは高級品でした。有田の「柿右衛門様式」や「金蘭手様式」は、その華やかさが好まれ、ヨーロッパで模倣されました。」

「金蘭手様式」は亡くなったクイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーも大好きだったようだ。↓

フレディ・マーキュリーが愛した日本と文化 x 伊万里焼と鍋島焼の宝庫・栗田美術館
栃木県に来る機会があり足利市にある伊万里焼と鍋島焼のみを集めた栗田美術館に立ち寄ってみた。あのクイーンの故フレディー・マーキュリーがプライベートで訪問したことがある美術館らしい。彼は日本文化、特に伝統的な工芸品や美術品を深く愛したと言われる。映画「ボヘミアン・ラプソディ」に感動した人間としては是非行ってみたい。

「季節風を利用した帆船による輸送は、沈没の危険を伴う長い航海でした。オランダ東インド会社による輸送は、秋に出島を出すると、冬、東洋における貿易拠点であったバタヴィア(現在のインドネシアのジャカルタ)に到着し、そこでオランダ本国をはじめ各地の商館へ向かう船に積み替えられました。南アフリカのケープタウンで必要な水や燃料を補給し、オランダ本国に到着するのは夏から秋にかけてと、およそ1年の輸送期間が必要でした。」

色絵龍虎文輪花皿 ↓

色絵花鳥文六角壺 ↓

「マイセンでは、当時ヨーロッパで人気のあった「柿右衛門様式」の製品が盛んにコピーされました。磁器開発を命じたザクセン選帝侯アウグスト強王のヨーロッパ最大の東洋磁器コレクションをもとに、製造技術は異なるにもかかわらず、オリジナルそっくりの精度の高いコピーが製作されました。
このようなマイセンによるコピーはヨーロッパの陶磁器に影響を与え、柿右衛門様式は18世紀に次々と誕生したヨーロッパ各地の磁器窯でもコピーされていきました。」

製造技術は違うのに、オリジナルそっくりのコピーを作った、というところに驚いた。
一体、どういう作り方をしたのだろう。さすがモノ作りに長けたドイツ人である。

以前、ドイツ在住中に、ドレスデンとマイセンを訪れたことがあるが、↓ 当時は、 その昔マイセンが日本の有田をコピーしていた歴史があったとは全く知らなかった。

阿蘭陀屋敷之図 ↓

「有田焼は、主に伊万里の港から長崎へと輸送され、ここから出帆する船で海外へ輸出されました。オランダ商館は1641年(寛永18)に平戸から出島に移され、オランダ商人は出島で商取引を行いました。中国商人は、はじめは長崎市中で、後には1689年(元禄2)に居留地として設けられた唐人屋敷で商取引を行いました。
1662年(寛文2)に出島の中で有田焼を売るための店を出すことが許可されました。店の道具を保管する小屋が出島の図に描かれています。」

出島に有田焼の販売店が出来た、という話は、昨日出島を訪れた際に学んだ話だ。

ドレスデン磁器コレクション  ↓

「東洋の磁器を最も熱心に収集した歴史的なコレクションは、ザクセン選帝侯(一時ポーランド王) アウグスト強王(1670〜1733)によるものです。アウグスト強王は、領内のマイセンで1709年にヨーロッパ初の硬質磁器の焼成に成功すると、東洋の磁器を精力的に集め始めました。収集した中国と日本の磁器コレクションは、1721年以降目録化されています。
コレクションは日本酸器、中国の緑彩蔵品、薬など10種類に分類され、それぞれに十、口、I、WWなどの記号と番号が割り振られて整理され、目録登載されました。総点数は約29,000点と膨大で、そのうち約8,000点が今もなおドレスデンに残されています。」

色絵花盆文透彫八角皿

「ドレスデン目録に対応する皿。日本磁器であることを示す記号+と375という番号が膨り込まれています。目録にも「374番 14枚八角形の透かし入り菓子皿内面は金彩の花の絵文様、外面は青い唐草文様径17½インチ、深さ2½インチ」、「375番 12枚 上に同じ やや小さい」 と製品の大きさと特徴が正確に記録されています。」

ドレスデンの街のシンボル、フラウエンキルへ(聖母教会)は美しかった↓
この教会は第二次大戦で破壊され、戦後、東ドイツとなったドレスデンで、ずっと破壊された状態のまま放置され、東西ドイツ統一後にやっと再建された。
訪問したのは2006年、まだ再建されたばかりだった。

欧州の有田焼

「17~18世紀のヨーロッパでは、王侯貴族に権力と富が集中し、フランスのルイ14世(1638〜1715)のベルサイユ宮殿に代表されるバロック様式の豪奢な宮殿が各地に建てられました。
東洋からもたらされる磁器、絹織物、綿織物(更紗)、絨毯、漆器で城を装飾することが財力の象徴となり、その後のロココの時代にも継続されました。部屋を大量の東洋磁器で飾るポーセリンキャビネット(磁器の間)↓ が流行し、現在でもドイツなどに残されています。」

こういう手順で作られる ↓

さて、今回ここにやってきた目的は、古九谷のルーツである有田で、古九谷の歴史の謎についてや、古九谷の中でも私のお気に入りの「青手」について。何か新しいヒントを得ることが出来ないか、というものだったが、「青手」について触れられていたのは以下の解説だけだった。

佐賀の古陶磁 有田焼② 初期色絵
「有田の色絵は中国の技術を導入して1647年(正保4)までに始まりました。1640~1650年代には磁器生産の技術の多くが中国的なものに変わり、中国磁器と競い合う製品が生み出されています。祥手(しょんずいで)、五彩手(ごさいで)、青手(あおで)などの初期色絵の様式が1650年代頃まで華やかに展開し、続いて金銀彩(きんぎんさい)も始まりました。初期の絵を生産した地区として、有田の中心であった内山地区のほか、有田の西部に位置する黒牟田地区があります。ここの山辺田窯跡に隣接する工房跡から初期色絵の陶片と赤絵窯が発見されました。」

また「青手」の展示作品は、以下の「色絵蔦文大皿、肥前有田、1655~1660 年代」しか見つけることは出来ず、それ以上の収穫を得ることは出来なかった。↓

もっと「青手」の古九谷調の作品が展示されていて、何か今までに知らなかった新たな解説を見れるのではないかと期待していたのだが。

唯一、銹釉(さびゆう)という古九谷の青手と雰囲気がちょっと似ている作品があることは初めて知った。透明釉の中に鉄の粉を混ぜて錆びた鉄の色を出す技術のようだ。年代としては、1650~70年代のものらしい。↓

今回、有田では古九谷の歴史の謎についてのヒントに触れることは出来なかったが、有田に来る前に色々予習をしていた中で、以下のサイトに記されていたことは、私にとっては非常に納得できるものだった。

伊万里焼と古九谷焼4|うつわ知新 | 京都知新 | MBS 毎日放送
2019年に始まった「うつわ知新」は、初心者の方にもわかりやすい焼き物やうつわ解説でした。丸2年を迎えた2021年9月からは、もう少し深く、焦点をしぼった見方ができる内容をご紹介しています。 それぞれのうつわが辿ったストーリーや製法について…

「青手古九谷には、磁器と半磁器の焼物があります。半磁器と言うのは陶土(粘土)と、磁土(陶石の粉末)を混合した生地を用い、陶器の柔らかな風合いを残しつつ、磁器に近い強さを持った焼物です。
 主に緑の色釉で表面を塗り詰めているため、緑色っぽく見えることから青手と名付けられたようです。緑色なのに青と呼ぶのは、古くから緑を青と呼んだ日本の習慣に由来すると言われます。(中略)
 青手古九谷は赤の色釉を使っていないこともその特徴です。さらに絵付けにおいて高い画力を求めて、職人ではなく絵師に力を発揮させていたことも特徴のひとつでしょう。絵画のごとくに一点限りの焼物を作ろうとしたと考えられます。
 古九谷の下絵は、狩野派の絵師で金沢にも住まいした久住守景によるものではないかという説もあると読んだことがあります。これはそれほど数寄者が、自分だけの唯一の茶碗を所有することを望んだように、注文主の好みを強く反映させようとした証と言ってよいのかもしれません。

絵画のような一点ものの焼物を作ろうとしたのではないか、また下絵は金沢に住まいした狩野派の絵師によるものだったのではないか、という部分に大いに頷いた。九谷焼を始めたのは、加賀藩の分家である大聖寺藩の初代藩主・前田利治で、茶人でもあった彼は、九谷村から算出されることが分かった陶石で磁器を生産し、藩の産物にしようと考え、後藤才次郎を磁器製作の先進地・肥前国有田に派遣し、作陶技術を学ばせたわけである。

茶人であった利治は、こんな一点物の焼物が欲しい、茶菓子を載せるのに相性の良い青手の皿が欲しい、と考え、金沢(加賀)の絵師に下絵を描かせ、まずは、有田に注文して焼かせていたのではないだろうか、そして、それを自分のお膝元の加賀でも焼けるように後藤才次郎を派遣して学ばせたのではないだろうか。後藤才次郎が有田から戻り九谷村に窯を開いたのは1655年頃とのことなので、まさに有田で青手が全盛を迎えていた時期と符号する。しかし、その後、古九谷の歴史は1710年頃にバサっと途絶えてしまう。

それが何故なのかについては、東京国立博物館で開催される以下の展覧会で、「百万石」を誇った加賀前田家の歴史の中でヒントを探してみようと思っている。↓

前田育徳会創立百周年記念 特別展「百万石!加賀前田家」
加賀前田家は、初代・前田利家が北陸に領地を得て以来、金沢を本拠に、江戸時代を通じて加賀・越中・能登の三か国、百万石以上の規模を誇る大名家として、明治維新に至るまで領国統治を行ないました。近代に入って東京に本拠を移し侯爵となった後も、前田家伝…

この日は雨だったが、室内で焼物について学ぶにはちょうどよかった。

さて、佐賀県立九州陶磁文化館を離れ、アリタセラに向かった。↓

アリタセラ / Arita Será
アリタセラ / Arita Seráは約20,000坪の敷地に陶磁器の専門店が軒を連ねる世界最大規模の有田焼ショッピングリゾート。美しく繊細な絵付けが施された伝統的な器から、先進的なデザインのテーブルウェア、美術工芸品まで、多種多様な有田焼…

私たちはMARUBUNというお店が気に入って、併設されているカフェで食事をした後に、記念にいくつかの器やカップを買った。↓

まるぶん ( Marubun ) – 有田焼を中心としたテーブルウェアの販売/開発 –
有田焼を中心としたテーブルウェアの卸売やショップ販売を行なっております。美しい絵付けが施された器から、シンプルでおしゃれなお皿、マグカップまで、幅広いジャンルの焼き物を取り揃えております。/ 究極のラーメン鉢, ZEPHYR, ZOA, P…

旅行の最後を飾るのは、鍋島藩窯: 伊万里大川内山の「秘窯の里」訪問である。↓

日本最高峰の磁器が江戸時代に作られていた場所である。

「大川内山には1660年代頃に鍋島藩の御用窯が築かれた。そこで作られた「鍋島」は日本の磁器の中で最も格調高く優れたものであった。「鍋島」は販売目的ではなく将軍家への献上品や、諸大名への贈答品とするためのものであったため、地区内に役所や番所を設け厳しく管理していた。その伝統や技法は現在でも守り受け継がれており、およそ30の窯元が軒を連ねている。
狭い谷間にレンガ造りの煙突や窯元が立ち並び、その後背に青螺山がそびえる風景はさながら山水画のようであり、「秘窯の里」としての雰囲気を醸し出している。」

現在も残る窯元については以下に紹介がある。↓

窯元
窯元の魅力 を体感すれば、きっとあなたも焼物のファンになるはずです。

再現された唐臼(からうす)↓

鍋島藩窯時代にはこの川畔に水車小屋が立ち並び陶石を砕く音がこだましていたとのことだ。ここ大川内山には、鍋島青磁の原料となる青磁鉱が豊富にあるとのことだ。

鍋島青磁の小さな器を二つだけ購入して帰った。

道路の脇に立つ柱には「鍋島藩窯 関所」と書いてあった。↓

雨が降っているので、後方に見える山々が煙っていて、まさに「秘窯の里」と呼ぶにふさわしい雰囲気だ。

実際には、当時の関所は、しばらく歩いていったところにあったようだ。↓
以下の説明書きがあった。

「鍋島藩窯関所跡
藩窯の秘密が漏れるのを防ぐため、入り口に設けられた木戸を関所と呼んでいる。これより内には藩窯関係者以外の通行を禁止し、藩窯関係者でも日用品の売買は、その関所で行われていたほどに管戒厳重であったといわれている。」

山水画のようなこの場所に実際に来てみたかったのだが、想像通りの雰囲気であった。↓

江戸時代の間、ずっと関所が置かれ、1670年頃には、31名の陶工がいたそうだ((細工方11人、画工9人、捻細工4人、下働き7人)。実際には、彼らの家族もいたはずで、家族も含めて、この関所から出ることを許されなかったのだろうか、どんな生活だったのだろうか、などと考えてしまった。

鍋島で有名な足利の栗田美術館では、鍋島の赤絵技法について以下の説明がなされていた。

「鍋島藩に於いては,赤絵付の技法が他に漏れることを極度に警戒し,鍋島藩窯に於いてすら,その使用を許さなかったのである。即ち皿山代官から,赤絵付業者は16軒に限って免許を得,厳しい統制のもとに,江戸末期まで,この16軒が独占的に行っていたのである。」

鍋島藩御用窯が有田南川良から大川内山に移されたのが1675年とのことで、昨年が鍋島焼開窯350周年だったようだ。

鍋島藩窯 -大川内山- 伊万里鍋島焼協同組合
開窯三五〇年 鍋島焼日本最高峰と言われる磁器をつくった、誇り高き、古の先人たちの想いを、まだ見ぬ、未来の陶工へ

最後に、記念として福岡大五窯の飯碗をひとつ購入して、鍋島藩窯を後にした。

レンタカーで長崎空港へ。

無事に3泊4日の長崎を中心とした旅を終えることが出来て感謝である。

今回の旅は中身が濃かった。やっぱり来れて良かった。

おわり

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