2026年3月22日〜25日長崎には以前から訪れたかった。
広島とともに原爆被害を受けた街であるというのが最大の理由だが、かって西洋に対する日本の窓口的存在だった長崎という街になんとなく憧れていたこともある。
九州は、博多〜湯布院〜別府の旅以来だ。
せっかくの機会なので、島原・雲仙・有田も巡る3泊4日の旅だ。
羽田から出発。

搭乗後に、機内誌を手に取ってみたら、今回の旅の目的のひとつで、最終日に訪問予定の鍋島藩窯についての記事があり、ドンピシャのテーマでびっくり、思わず熟読してしまった。↓

いよいよ着陸である。

早速レンタカーに乗り込んで出発。クルマと並走する一両編成の黄色い電車が可愛かった。↓

降り立った長崎を素通りして、最初に向かったのは、島原である。
キリシタンの歴史について興味があるので、島原の乱の舞台を訪れないわけにはいかない。
事前に、有馬キリシタン遺産記念館と世界文化遺産の原城跡のガイドツアーを申し込んでおいた。
だが、到着する頃には、残念ながら、予報通り、雨が降ってきてしまった。
ガイドの田中さんが電話を下さって、通常は有馬キリシタン遺産記念館で勉強をしてから原城跡を訪問するのだが、今なら、無料のタクシーサービスをギリギリ使える時間なので、雨の中を歩いて移動するのを避けて、まずタクシーを使って原城跡を訪問してから、遺産記念館を見学する段取りにしていただけた。
以下は原城についての説明である。
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原城は鹿島4~9年(1599-1604)頃に、キリシタン大名の有馬晴着(1567-1612)によって築かれた城郊とされています。登教師の記録によると、有馬氏本城の日野江城が手狭で戦闘に不向きであったため、新たに巨大で堅固な原城が築城されました。

(中略) 元和2年(1616)、大和五条より入封した松容量成が居城を島原へ移したため、原城と日野江城は廃城となりました。
寛永14~15年(1637-1638)の島原・天草一段では、度重なる飢産や領主の弾圧に耐えかね、2万を超える農民が難起し、最終的に廃域となっていた原城に籠城しました。一揆勢のほとんどがキリシタンでした。

一揆は約4ヶ月の長期戦となりましたが、兵糧攻めの末、寛永15年(1638)2月末の幕府軍の総攻撃により鎮圧されました。一揆以降、ポルトガル船の来航禁止、宗門改帳の作成が実施されるなど、海禁(鎖国)政策やキリシタン禁制および領民の統制が強化されていきました。原城を主戦場としたこの戦いは、幕府の支配政策にも影響を与える大きな出来事でした。
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原城跡の石垣は、島原・天草一揆の終結後、幕府軍により徹底的に破壊されたため、今では城の形跡をほとんど感じられない。単に石垣を突き崩すのみでは、すぐに築石が高く積み上がり十分に破壊できないため、原城ではいったん突き落とした築石を前方へ引きずり出し、再び石垣を突き崩すといった作業が繰り返されたらしい。幕府に抵抗する拠点として二度と使えないように徹底的に破壊されたわけだ。




原城の石垣の下からは一揆勢の亡骸も数多く発見された、とのことだ。(↓は有馬キリシタン遺産記念館の展示)。

天草四郎の像と碑。
像は、長崎平和祈念像で有名な南島原市出身の彫刻家・北村西望氏の作品だ。

下の写真の碑には以下の説明があった。
この碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものだそうだ。
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天草四郎
小西行長の家臣、益田甚兵衛の子で、本名益田四郎時貞といい洗礼をうけてジェロニモと称し、籠城中に書いた「四郎法度書」にはフランシスコと署名しています。恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強しているとありますが、詳細は不明です。
島原・天草一揆に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に龍城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。
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なぜ、15歳の少年が総大将になったのか?が疑問だったのだが、AIに聞いたりして調べてみた限り、軍事的指導者ではなく「宗教的カリスマ」として選ばれた、若い=純粋=神に近いという宗教的イメージが正統性をもたらせた、ということらしい。

そばには、海の方向を見る三体の小さな石像があった。↓

何のためにここに置かれたのか、石像は何を祈っているのか、雨の中で見たこの後ろ姿がなんとも印象的であった。↓

ガイドの田中さんに紹介されて、原城聖マリア観音ホールに移動した。↓

中に入ってびっくりした。
高さ約10mの巨大な木彫りのマリア像があった。なんと40年の歳月をかけて彫られたものだそうだ。
下から見たマリア様はとても優しそうな表情をしていた。↓

作者(寄贈者)の親松英治さんの言葉が書かれていた。
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原城大聖マリア観音について
日本のキリシタン殉教者のため、自分の好きな聖母像を生涯かけて制作してみたいとの想いから、1981年に来日されたヨハネパウロニ世教皇様に祝福をお願いして始めたのがこの仕事です。
長年、日本の仏教美術に囲まれてきた私にとって、聖母像制作のための様式と感覚の転換は容易ではなく、構想に長い時間がかかりました。
こつこつと小品を試作し、一段目、二段目、三段目、四段目と拡大してパランスを考え、五段目にようやく本番の楠木による10mの制作にとりかかりました。
又一木造りでは、このような大木はもうどこにもありませんので、樹齢3百年以上のできるだけ大きな楠を横にスライスして拡大し、校倉造りにして制作しました。これは私の独自の考案です。
こうしていつの間にか40年の歳月が流れましたが、多くの方々のご支援をいただき、今ようやく完成を見るに至りました。
教皇様の祝福を心の支えにしながら、制作中絶えず念頭にあるのは島原の乱に倒れたキリシタンの3万とも3万7千人ともいわれる罪なき人々のことです。鉛の弾を鋳て作った十字架を握り、餓、寒さ、血と恐怖の中で聖母マリアの名を呼びながら息絶えた人々へ、この像は私の捧げるレクイエムです。
又、この像が宗派、善悪、恩讐をこえたものであることを願って「原城大聖マリア観音」と命名しました。
今ここに、この像が建立されるにあたり、土地を寄進し、工事を負担し、又、私財を投じて立ち上がってくださった法人の方々、その他の皆様に深く感謝します。
どうか皆様の上に恩寵豊かにありますように。
2023年8月
親松英治
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記念碑には、2022年7月着工、2024年9月竣工とあった。出来たのはつい最近だ。↓
驚いたのは、当初からこのマリア像がここに寄贈されることが決まっていたわけではなかった、ということだ。
親松氏が、神奈川県藤沢市のアトリエで制作を開始してから30年が経過した頃に、像の受け入れ先を探していたところ、世界遺産を活かしたまちづくりに取り組む南島原世界遺産市民の会が、親松氏の想いに感銘を受け受け入れを決め、地元の川口廣光氏が先祖から受け継いできた土地を寄贈されて建設されたという経緯なのだそうだ。↓

最後に有馬キリシタン遺産博物館を訪問した。↓

入口近くに天正少年遣欧使節が1590年に日本に持ち帰った印刷機の複製が展示されていた。↓ これは、ドイツのグーテンベルグが1450年に発明した鋳造金属活字を原稿によって組み立て、油性の印刷インクを用い、ブドウの絞り器の要領でプレスするという近代印刷術の要素を備えたもので、この印刷機によって南島原市で日本で最初に活版印刷が行われたのだそうだ。

その天正遣欧少年使節のローマ派遣を計画、実施したのが、ザビエルに次ぐ日本のキリスト教宣教の貢献者、アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
この人物のことは今まで良く知らなかった。↓
1579年(天正7年)、有馬の外港口津港に降り立った、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、有馬領主有馬晴信に洗礼を授け、南島原に基盤を作り、さらにキリスト数を日本に根づかせ、日本の信徒が日本人の手によって自立していくことを目標に、ヨーロッパの近代的教育制度を取り入れたセミナリヨやコレジヨなどの教育機関を設置。
さらに、国際的教養を身につけた日本人の育成を願い、そこで育った少年たちをローマに派遣する歴史的大事業「天正遣欧少年使節」を計画、実施し、1590年、ローマ教との謁見を終えた遣欧使節を伴って2度目の来日を果たし、遣欧使節の4人と共に豊臣秀吉に謁見した、という歴史である。
ヴァリニャーノは、その後、第3次巡察で来航した時の1601年(慶長6年)に念願の日本人最初の司祭を誕生させ、1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、その3年後マカオで生涯を終えた、とのことだ。
彼は、イタリアの名門貴族の家に生まれ、聖職者の道へ進みイエズス会に入会、1573年、東アフリカからインド、アジアまでの広大な地域を指導する東インド管区の巡察師に大抜擢されたという経緯のようだ。
イエズス界の創設者のひとりである、あのフランシスコ・ザビエルもスペインのナバラ王国の貴族出身のようで、当時のイエズス会はカトリックの精鋭集団であり、その中でも大抜擢されたヴァリニャーノは相当優秀な人物であったのだろう。

1582年(天正10年)有馬のセミナリヨの第1期生、千々和ミゲル、伊藤マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノの4少年が、キリシタン大名の有馬晴信、大村純忠、大友宗麟の名代としてヨーロッパを目指し、2年半の長い船旅を経て1584年(天正12年)ヨーロッパに到着。ポルトガル、スペイン、イタリア、バチカンなどを巡り、各地で熱烈な歓迎を受けた使節は、スペイン国王さらにローマ教皇に謁見、4少年は極東の国、日本をヨーロッパに紹介する役目を果たした、ということは教科書でも学んだ。
が、知らなかったのは、この使節のことは、その後の禁教時代の日本の歴史から消えていた(消されていた)、ということだ。
日本が使節の事実を知ったのは、1871年に日本を出発した岩倉具視の欧米使節団が欧州に滞在した1873年のこと、なんと300年後のことだったそうだ。


一方で、不平等条約改正交渉・西洋文明視察を目的としたこの岩倉具視の使節団は、欧州を訪問の際に、日本がキリスト教徒を迫害していることについて強い批判を浴び、岩倉使節団が帰国した1873年に禁教令の撤廃に大きく舵を切ることになったという歴史がある。
特に欧州では「浦上四番崩れ」が大きな問題とされていたようだ。崩れとは摘発の意味で、幕末から明治にかけて起きたキリシタン迫害の中で最大だったのが四番崩れである。当時、長崎の浦上地区の住民「全員」、3,394人が全国の20の藩に分けて1867年から強制移住させられ(浦上のキリシタン根絶を目指し一村総流罪)、移住先で苛烈な拷問や苦役を受け、600人以上が亡くなった、という迫害事件だ。
彼らは、欧州で批判を浴びた岩倉使節団が日本に戻り、1873年に禁教令が撤廃されて初めて浦上に戻ることを許された。
別途、後ほど改めて書くが、今回、キリシタンに対する残酷な拷問のことを改めて知り、なんとも苦しい気持ちになった。


有馬キリシタン遺産博物館を出て、クルマを走らせ、今日のお宿「界 雲仙」に向かった。
ここは「雲仙地獄」という高温の噴気(ガス)や熱水(温泉)が噴出するエリアに隣接していて、全客室が地獄ビューで、地の底から噴き出す蒸気の景色は壮観、とのことである。
到着した。↓ 建物の向こうに雲仙地獄の白いガスが見える。
クルマのドアを開けたら、どっと硫黄の匂いが押し寄せてきた。



ガラス窓越しに、もくもくと噴煙を上げているのは「旧八万地獄」。↓
八万地獄は人が持つ八万四千という煩悩による悪行の果てに落ちる地獄とのことである。
「旧」となっているのは、かっては活動が活発は地獄だったが、今は活動が以前よりは弱くなっている、という意味らしい。


部屋は「客室付き露天風呂」という名前だ。
露天風呂が主役、という意味か。
日本(和)と中国(華)とオランダ・ポルトガル(蘭)の文化が融合する「和華蘭の間」だそうで、たしかに、ステンドグラスの間仕切りや長崎ビードロ(=ガラス)を使ったライトなどは、長崎らしくて良かった。



温泉は強い酸性泉で、殺菌効果が高く、美肌効果もある効能の高い温泉で、それゆえに体への負担が大きいので、長湯は厳禁とのことである。
借景の旧八万地獄から立ち上がるもうもうとしたガスを眺めながら部屋で温泉に入れるのは、なんとも温泉ぽい。

ビールを飲んでひと息ついた後は、まず大浴場に出かけた。



大浴場から出てきたら、すっかり日が落ちて良い雰囲気になっていた。↓

さて、夕食の時間だ。
今日は日本酒をいただくことにした。↓

先付けの「湯せんぺい豚角煮リエット」は、自分でせんぺいを割って食べる。↓





卓袱(しっぽく)料理の円卓を模した宝楽盛り。↓


あご(とびうお)出汁のしゃぶしゃぶと五島うどん。↓



とても美味しかったです。ごちそうさまでした。
食後に1階のライブラリーに寄ってコーヒーを飲んだ。
夜はステンドグラスの光の演出があってなんとも美しかった。↓




部屋に戻って、再度露天風呂を楽しんでから就寝💤

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起床。
まず、露天風呂に入る。

露天風呂を出たら、横の防水仕様のソファでくつろげるのが良い。↓

朝食だ。
波佐見焼のプレート、器や色々なガラスが美しかった。






朝食も美味しかったです。ごちそうさまでした。
朝のライブラリーも綺麗で居心地が良かった。↓


ライブラリーで面白い本を見つけて、しばし読み耽ってしまった。

雲仙の歴史が書いてあったが、その昔はこんなインバウンド観光の名所だったとは知らなかった。
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避暑地として人気に
承応2年(1653)、藩主・松平忠房の命により「延暦湯」という共同浴場が造られ、温泉地としての本格的な歴史が始まる。その後、湯守に命じられた加藤善左衛門が湯宿を創業。次第に湯治場として栄えるようになった。
転機が訪れたのは明治22年(1889)のことだった。上海の英字新聞 「North China Herald」に雲仙を紹介する記事が掲載された。山の中腹にあって夏でも涼しく、バカンスにふさわしい温泉地であることや、長崎から雲仙までのルート、外国人客も予約できる宿の情報などを詳しく紹介。全4回の記事は一冊の本にまとめられ、上海租界地域在住の欧米人がこの本を手に雲仙へと向かうようになった。明治45年の続計では、日本人の利用者1万2532人に対して外国人は1万3022人であった。
1カ月近く長期滞在して高い経済効果をもたらす外国人客のため、次々と西洋式のホテルが建てられ、雲仙温泉は日本初の海外向けリゾートとして発展していった。大正12年(1923)には長崎と上海を結ぶ定期航路が運航されるようになり、外国人客数は右肩上がりに増加。ゴルフ場やテニスコートなども整備され、最盛期には世界30カ国から年間約3万人が訪れた。
午前中はゴルフやハイキング、登山をして、ホテルでランチを楽しんだ後は読書や昼寝。
夕方からお酒を楽しみ、夜はドレスアップしてディナーとダンスパーティ。さまざまな国の紳士淑女がバカンスを楽しみ、近代リゾートにふさわしい光景が見られたが、長くは続かなかった。第二次世界大戦の勃発、太平洋戦争の開戦を迎え、外国人客の姿は消えていった。++++++++++++++++++++
昭和10年(1935)、外国人向けに創業した雲仙観光ホテルは、日本を代表するクラシックホテルの一つ、とのことだ。

部屋に戻って、最後に露天風呂を楽しんだ。今日は快晴で気持ちが良い。↓

ルームキーもステンドグラス仕様になっていて素敵だった。↓

界 雲仙をチェックアウトして、すぐ隣にある雲仙地獄を散歩した。↓
一帯には、大叫喚地獄やお糸地獄など30余の地獄があるそうだ。

地獄の遊歩道を歩き出してすぐのところに清七地獄があった。↓
これがここでは一番湧き出し方が激しく、黒い泥水の水たまりのようなところに、ボコボコと湯が湧き出ていた。

その場にあった説明書きには「キリシタンで長崎に住む清七という男が捕えられ、処刑されましたが、そのころにこの地獄が噴出したといわれ、この名がつけられました」とあったが、私はキリシタンだった清七が、ここで残酷な拷問を受けて殉教したから清七地獄という名前になったのであろうと私は勝手に想像している。
動けないようにしたキリシタンに、改宗(棄教)を迫るために、ひしゃくで湧き出す熱湯をかけて火傷を負わせ、すぐに殺してしまうのではなく、わざとじわじわと苦しみを与え、結局、死に至らしめたらしい。

「噴気や温泉の集まっている所を、「地獄」と読んでいます」という解説があった。↓
「ゴウゴウと音を立てて、盛んに湯煙を上げている様子やゴツゴツした白い湯の花が一面を覆う様子から、昔の人々は、このような場所を仏教でいう「地獄」に例えたのでしょう。」と説明されていたが、雲仙の場合は、キリシタン拷問の場所でもあったのだから、まさに地獄そのものだった、というべきだろう。




地面が暖かいのでネコたちがゴロゴロのんびりしている。↓
このあたりのネコはきっと元気に違いない。

「お糸地獄」↓
横の説明書きには「その昔、島原城下で、たいへん裕福な生活をしていたのに密通をしたあげく、夫を殺してしまったお糸という女がいました。お糸が処刑されたころこの地獄が噴出したので、「家庭を乱すと地獄に落ちるぞ」という戒めを込めてこの名前がつけられたといわれます」と書かれていた。
が、本当はキリシタンだったお糸が拷問を受けてここで殉教したから、お糸地獄と呼ばれるようになったに違いないと私は勝手に想像している。


キリシタン殉教碑もあった。↓
「寛永4年(1627)からの7年間にこの地で殉教していった者は33名といわれています。この地獄を見下ろす丘の上に建っている十字架は、今なお殉教の信徒をたたえています」との説明が気があった。


重苦しい気持ちになりながら、地獄を出発した。

今日はこれから長崎に移動して、今回の旅のメインイベントのひとつ、軍艦島上陸を目指す。
つづく


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