2026年3月22日〜25日
前回からつづく。
胸が痛んだ雲仙を出て、クルマを走らせ、長崎の中心部に着いた。↓

まずは大浦天主堂に向けてグラバー坂を歩く。↓

今日はゆっくり昼食を楽しんでいる時間がないので、名物の角煮まんじゅうをいただいて、すぐに出発。
もちろん、とても美味しかった。

見えた。大浦天主堂である。↓




天主堂の入口前のマリア様も本当に優しい表情だった。↓

キリスト信者発見百周年記念碑
カトリック長崎大司教区 1965.3.17 と書かれていた。↓

キリスト信者発見については、以下の通りである。
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大浦天主堂はパリ外国宣教会によって建設された居留地の外国人のための教会堂で、当時は“フランス寺”とも呼ばれていましたが、主任司祭であるプチジャン神父は教会の正面に日本語で“天主堂”という文字を掲げました。そう、日本人信者の存在を意識していたのです。その予感は見事に的中し、献堂式から約1ヶ月後の元治2年2月20日(1865年3月17日)、杉本ユリら浦上の潜伏キリシタンおよそ15人が訪問。聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ここにおります私たちは、皆あなたさまと同じ心でございます。」(私達もあなたと同じ信仰を持っています)」と秘密を告白し、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。プチジャン神父は大喜びですぐにフランスから持参していた聖母像の前まで導き、一緒に祈りを捧げたといいます。
これをきっかけに約250年の長きにわたり、長崎地方に潜伏し、信仰を守り続けてきたキリシタンの存在が明らかになりました。この出来事は信徒発見と呼ばれ、全世界に驚きと感動を与えました。
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詳細は以下のサイトを参照。
しかし、これが結局、その後の悲惨なキリシタンの運命の導火線になってしまうとは。
大浦天主堂とキリシタン博物館は、内部の写真は撮影不可なので写真はないので、公式ウェブサイトを参照いただきたいが、キリシタン博物館に展示されていた内容は、出来れば写真に納めて後でしっかり復習したい内容であった。

特にここで知ってショックだったのは、天正遣欧少年使節のひとり、中浦ジュリアンは、帰国後に拷問で殉教されたということだ。
彼は、最も過酷と言われる「穴吊り(あなづり)」の拷問の末に殉教されている。
遠藤周作の小説『沈黙』(1966年)において、この拷問について書かれているようだ。
その概要は以下の通りである。
・キリスト教徒(主に司祭)を逆さ吊りにし、糞尿などが溜まる穴の中に頭部を落とす。
・穴に吊り下げられた際、血液が頭にのぼり、苦痛が長引くように耳の裏に小さな穴を開け、そこから少しずつ血を流し落とすという、非常に残虐な手法が描写されている。
実際には、人を逆さに吊るすと内臓が逆流して(すぐに死んでしまう)しまうため、それを防ぐために身体に縄をぐるぐる巻きにして、この拷問を実行したようだ。耳の裏に穴を開け血を流すというのも、すぐに死なせずに、生き地獄のような苦しみを長く与えるために考えられたやり方だそうだ。
こういうことを考える人間というのは恐ろしい生き物である。
かって、仕事の研修でカンボジアに行かせてもらったことがあり、プノンペンの世界遺産・トゥール・スレン虐殺博物館を訪れたことがある。
悪名高きポル・ポトが約2万人を収容し、生き残った人がわずか8人という、とんでもない強制収容所の跡地が、そのまま虐殺博物館になっているところである。
ここで行われていた拷問の中で、私が最も嫌だったものが逆さ吊りである。
囚人を逆さ吊りにして、気絶したら下の汚物(糞尿)の入った壺に頭を突っ込まれ、意識が戻ったらまた吊るされるという拷問である。
当時、カンボジアではこんなことがあったのか、カンボジア人が同じカンボジア人にこんなことをするなんて、ポル・ポトというのはとんでもないヤツだと思っていたのだが、なんと日本でも、同じ拷問を、日本人が同じ日本人にやっていたとは。
以下はトゥール・スレン虐殺博物館の公式サイトと、そこを訪問された方のブログ(私の感覚に非常に近い)である。

言葉がない。
昔のカンボジアの記憶まで生々しく蘇ってきた。
プノンペンの虐殺博物館の凄さは、いまも、その拷問が行われたその場所をそのまま博物館にしていることだ。やはり、人間という生き物は、その現場を残しておかないと、記憶が無くなってしまうというバカな生き物なのであろう。
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しばし間をおいて、気持ちを整えながら、軍艦島ツアーに向かった。
ツアーは何種類かあるようだが、私たちは軍艦島コンシェルジェのツアーに参加した。
今日は天気も良いし風もないので、軍艦島にも上陸できそうだ。
まず、最初にデジタルミュージアムにて予習をした。
予習という意味では、事前に「海に眠るダイヤモンド」をしっかり観てからやってきたので準備はかなり整っている。当時、黒ダイヤと呼ばれた上質な石炭の採掘をしていた端島(=軍艦島)をテーマにしたこのドラマはとても良かった(詳細は語ると長くなるので省くが)。

軍艦島に出発する乗船前に、デジタルミュージアムでの予習の最後の締めとして、当時、端島に住んでいた方のお話があった。当時小学生で、お父様は映画館の館長をされていたそうだ。
ドラマでは、片桐はいりが館長を演じていた。台風が来て、その時に島に送られてきた新作映画のフィルムが飛ばされ、それを追いかけているうちに、お父様は台風の高波にさらわれて海に落ちてしまったとのこと、一生懸命泳いで島の岸に辿り着こうとしたが、どうにも無理だったので、諦めて、どうにでもなれと、海面に浮かんだ途端、大きな高波が来て、一気に島に打ち上げられ助かったという話だった。なんともすごい話である。
以下はミュージアムでの予習。
X階段の当時の写真。↓

最盛期には、この狭い島に5,000人以上が住んでいた。世界一の人口密度。↓

当時の軍艦島のアパートの一室が再現されていた。↓
軍艦島には、当時30棟以上のアパートが林立していた。
部屋奥のど真ん中に白黒テレビが鎮座しているが、1950年代の終わり頃、日本全体の白黒テレビ普及率が10%だった時代に、端島における普及率はほぼ100%であったということだ。
海底深くにある炭鉱での仕事は、命を懸けたきついものだったが、その分、給料は高かった、それをやりがいに誇りに思って、家族も含めてみんなで頑張っていた、ということだろう。

30棟以上あったアパートの中で、当時世界的にも最先端の建築だったのが、1916年に建造された高層鉄筋コンクリート造り7階建て住宅・30号棟だった。
端島炭鉱を買収して当時のオーナーであった三菱が施工、清水建設(当時は清水組)が直営下請工事を行なったものだそうだ。↓

まず、木造住宅では自然災害で壊滅してしまうこと、第一次世界大戦勃発による戦争特需で採炭量を増加、それにより労働者の増員が必要になっていた、また定着率の高い家族持ちの坑夫を雇うために、大部屋ではなく、このようなアパートが必要になった、という背景だったようだ。

完成時の模型。↓

現在の姿。↓

当初、水は船で運んできていたが、それでは足りなくなり、ついに1957年には6.5kmの長さの海底水道を2本引いた。↓

学校も高層建築。最盛期の小中学生は1,169人だった。↓

端島に住む子供たちは植物がどのように育つのかを知らない(知ることが出来ない)ということが問題になり、屋上に庭園も作った。↓

ドラマで、当時の端島を「一島一村」と表現する場面があったが、まさにひとつの村、というか、街だったわけだ。
ドラマで、池田エライザ演ずるリナが歌った「端島音頭」のレコードも飾られていた。↓

なお、以下のサイトは、軍艦島デジタルミュージアムが取材協力しているとのことだが、軍艦島について知るには非常に興味深い。
さて、いよいよ出港である。

見えてきた。↓
船は、上陸前に、軍艦島の周りをぐるっと一周してくれるので、見え方が変わる。






せっかくの機会なので、今回はプレミアムコースのチケットを買ったので、こんな記念写真を撮影してもらえた。↓

いよいよ接岸。先行する別のツアーの船の人たちが上陸しているのが見える。↓
実際には、上陸出来ないことも結構多いらしい。
天気が悪ければダメだし、天気が良くても波が高ければダメだ。
我々はラッキーだった。


上陸した。

一番上に見えるのが、確か、水を溜めておく貯水槽だったはずだ。↓




「天川(あまかわ)工法」で作られた端島の護岸。↓
天川とは、石灰を加え水で練ると硬化する水硬性の土(天川土)を使った工法である。天川土は長崎地方に産する安山岩風化土(一種の赤土)のことを指すようだ。明治時代にコンクリートが普及する前に使われていた方法で、ここでは、それを凝固剤として使って石で組んだ護岸が、コンクリートで補強され、現在まで使われ続けている。
ツアーのガイドさんが「この天川の護岸があったから、軍艦島は世界遺産として認められたんです(それだけ価値のあるもの)」という言い方をされていた。
軍艦島を襲う台風の威力は凄まじく、通路面のコンクリートや金属製の手すりなどは1年経つと簡単にボロボロになってしまうのだそうだ。それを考えると天川工法、恐るべし、さすが世界遺産である。

奥に30号棟が見えてきた。↓
「このあたりでB’zがミュージックビデオを撮ったんですよ」とガイドさんが教えてくれた。

家に帰ってから調べてみたら、B’zの「MY LONELY TOWN」(2009年10月14日発売)のミュージックビデオが2009年8月に撮影されたとのことだ。
当時、35年ぶりに軍艦島への上陸が解禁された直後で、軍艦島が世界遺産登録を目指す中、長崎市の協力も得て、観光ルート外の立ち入り禁止区域や、小中学校跡地、鉄筋コンクリートのアパート前などで大規模に敢行された、ようだ。
B’zは、特にギターの松本のファンなので敬意を込めて、そのビデオは以下参照。↓

30号棟跡。↓
ミュージアムで見た模型よりもさらに崩れてしまっている。
一体、いつまでこの建物がここにあるのを見ることが出来るか? とガイドさんも言っていた。


ここでガイドツアーは終了。みんなで船に戻った。



軍艦島とは、これでお別れである。↓
「海に眠るダイヤモンド」を見た予習の時から始まった、軍艦島上陸の旅がこれで終わってしまったな、と思うとなんとも寂しかったが、来れて本当に良かった。
また、宣伝をするつもりはないが、軍艦島コンシェルジェのツアーは、移動の船の中でも、軍艦島のことや長崎のことについていろいろと説明を聞くことが出来て、ミュージアム含めて非常に内容が濃くて充実していた。

無事に船を下船して、ホテルに行く前に、稲佐山展望台に立ち寄った。↓
本来は長崎が誇る1,000万ドルの夜景をここから見たいのだが、せめて夕方の景色だけでも。

景色は素晴らしかった。
夜はさぞかし美しいであろう。

海の方に視線を向けてみた。

軍艦島を見つけた。 ↓


本日のお宿は、ガーデンテラス長崎ホテル&リゾートである。↓
隈研吾さんの設計で、夜景も綺麗らしい。




眺めの良いラウンジがあるので、まずはビールを飲んでリラックス。



夕食の時間だ。
九州創作料理のレストランで地元の日本酒を飲みながら美味しい食事をいただいた。









すっかり日が落ちて夜景が美しい。
ただ、残念ながら、このホテルは稲佐山展望台より高度が低いので、稲佐山からの景色ほど広がりはない。

だが、十分に美しい。
ずっと長崎には来たかったので、これが長崎か、と思いながら眺めた。↓
その昔「長崎は今日も雨だった」という内山田博とクール・ファイブの名曲があって、子供の頃の記憶で良く覚えているが、雨にならずに夜景も楽しめて良かった。
ちなみに、リードボーカルの前川清は長崎県出身だと知って驚いた。

ラウンジで夜景を見ながら綺麗なカップでコーヒーがいただけてありがたい。



部屋に戻って、夜景を見ながら風呂に入って就寝💤
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朝だ。部屋からの眺めが美しい。↓


なんとも清々しい。

朝食。

選べるようになっていて、私たちは鯛茶漬けをいただいた。↓

そのほかにもいろいろ追加で選んで頼めてパンケーキまでいただいてしまった。↓
ご馳走様でした。美味しかったです。

どうやら最上階は眺めの良い結婚式場になっているようだ。↓


チェックアウトの時間だ。

今日は、これから、まずは絶対に行かねばならない原爆資料館訪問である。
つづく


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