長崎_島原_雲仙_有田の旅③ | 長崎の歴史を巡る〜被爆・キリシタン・西洋文化・近代産業〜 そして佐賀の嬉野温泉へ

2026年3月22日〜25日

前回からつづく。

今日は長崎をしっかり見て回る日だ。
昨日は、大浦天主堂を訪問した後は、軍艦島上陸だったので、まだしっかりと訪問したいところがたくさんある。
原爆資料館、山王神社の一本柱、被爆クスノキ、平和公園(平和記念像)、浦上天主堂、ランチは福寿のちゃんぽん、出島、グラバー園の順である。

まずは、原爆資料館に向かった。

長崎原爆資料館 – 長崎原爆資料館・長崎市平和会館


ここは絶対に外せないので、朝一番に訪問した。↓

資料館に入ると、まずこの言葉が目に入った。↓

1945年(昭和20年)8月9日の長崎市
人口 約240,000人
原子爆弾による被害者数(1945年12月末までの推定)
死者73,884人
負傷者74,909人
(1950年/長崎市原爆資料保存委員会調查)

その後すぐに、爆心地から北東約500mのところにあった浦上天主堂の被爆の惨状についての展示があった。↓

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16世紀後半より、キリシタン布教の地として歴史を持つ浦上地区。
1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴史に耐え、1873年(明治6年)、禁制の解かれる日を迎える。信仰の灯を守りとおした人々は、レンガを一枚一枚積み上げ、20年の歳をかけ、浦上天主堂を1914年(大正3年)に、その後双塔を1925年(大正14年)に完成させた。双塔の高さは26メートル、東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、原子爆弾により、鐘楼ドームは吹き飛ばされ、わずかな堂壁を残しただけで、無残に崩れ落ちた。
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原爆は長崎市北部上空約500メートルで爆発した。
その爆発力はTNT火薬21キロトン(21000トン分の高性能火薬の爆発力)相当で、たとえると4トン積みトラック約5200台分のダイナマイトが頭上で一度に爆発した場合に相当した。しかし、本物の原爆は火薬とは違い、大量の放射線も出して人々の命を奪った。

爆風の検証↓

爆風の風速は、爆心地から1キロメートルの地点でも毎秒170メートルあり、台風の風速が最大級でも毎秒80メートルほどであるのに比べれば、いかに強烈な破壊力をもっていたかがわかる。爆心の真下では、1平方メートルあたり6.7から10トンもの圧力が瞬間的に働いたと推定されている。爆風は爆心地近くのあらゆる建物を破壊し、約10秒後には爆心地から約3.7キロメートル、30秒後には約1キロメートルに達した。このあたりでようやく力が買えたが、それでも12キロメートル離れた伊王島で窓ガラスが割れ、15キロメートル先にまで破壊の影響がおよんでいる。

原爆による火災の検証↓

原爆の熱線によってあちこちに火がつき、それが燃え広がって大火災を引き起こした。破壊された町は、火を招きやすい状態だったといえる。火災の範囲は爆心地から南へ3.5キロメートルにもおよび、浦上地区を中心に長崎市の約3分の1が全焼した。県庁付近では午後0時30分頃に、爆心地から3.3キロメートル離れた県庁舎から出火し、折からの南西の風にあおられて風下の町を焼きつくした。午後6時頃、東風に変わって、延焼がにぶりはじめ、ようやく火がおさまったのは夜中の12時頃だったという。

一昨年に広島平和記念資料館を訪れたが、今回、長崎原爆資料館も訪れることが出来て、長崎の方が、当時の悲惨な写真等がより多く展示されていて、被爆の悲惨さの印象がより生々しく自分の心に残ったような気がした。

1955年7月、哲学者のバートランド・ラッセルと物理学者のアルバート・アインシュタインが核兵器廃絶を訴える宣言を発表したということも今回初めて知った。↓

原爆資料館を出て、平和公園の原爆落下中心地碑に来た。
横に浦上天主堂の側壁の一部が被爆当時の姿のまま移設されている。↓
壁上の石像は、フランシスコ・ザビエルと使徒だが、風雨にさらされて劣化が進行したことから、安全性を考慮して内部及び表面の補強が行われて現在に至っているとのことである。

しばらく歩いて、一本柱になった山王神社の二の鳥居、のところまで来た。↓

以下は原爆資料館にあった当時の写真だ。↓

ここに横たわっているのは、山王神社二の鳥居の吹き飛ばされた左半分。↓
山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであったが、原爆の爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとは倒壊。一の鳥居はほぼ原形のまま、また、二の鳥居は、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの、奇蹟的に右半分だけ残った。
しかし、戦後、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、現在も当時のままの姿で立っているのは、この二の鳥居だけである。

さらに歩いて、山王神社にやってきた。
福山雅治の歌「クスノキ」で有名な被爆クスノキを見たくてやってきた。

横にあった長崎市教育委員会による説明書には、「この2本のクスノキは、胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートルで、(中略)ともに昭和20年の原爆で主幹の上部が折れたため、樹高は10メートル内外であるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40メートル、南北25メートルの大樹冠を形成している。原爆の影響で一時落葉し枯木同然であったが、次第に樹勢を盛りかえし今日に至っている。」と書かれていた。

どうやら昭和44年(1969年)2月15日に長崎市指定天然記念物とされた時に立てられた説明書のようだが、当時は樹高が「10m内外」だったと書かれている。現在は、17.6m、21.0mと書かれており、どんどん大きくなっているようだ。安心した。

クスノキの脇には「石」があり、このような説明がつけられていた。
「小石」と呼ぶには、あまりに大きいのでは、という印象で、一体当時、どんな大きな力がどのように働いたのか全く想像出来ない。↓

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この石の由来について
この石は、平成十八年(二〇〇六年)山王神社被爆 楠の木の二度目の治療の時に、右側の木の空洞の中から取り出されたものです。(爆風 秒速二二〇メートル、熱一〇〇〇度<推定))
その証として無数の石が、右側の木の中から発見されました。
この木の三メートル上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって爆風により石が舞い上がり、小石が穴の中に入ったものと考えられます。
常識では考えられないような大きな力が加わった原子爆弾の威力を物語っています。
神社に向かって左側の楠の木は爆心地に近く、主幹は途中で折れています。そのうえ、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていた為、治療の時その破片を取り除くのには困難を極めました。
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平和記念公園の平和記念像の前に着いた。ここも絶対に来たかった場所だ。↓
MISIAが2015年のNHK紅白で私の好きな名曲「オルフェンズの涙」を熱唱した場所でもある。

この像の作者・北村西望氏の言葉で、この像の右手が原爆を指し左(手)が平和を(意味している)ということを初めて知った。↓

平和公園を後にして、浦上天主堂に来た。↓

近づくと、浦上天主堂の旧鐘楼が見えてきた。↓

原爆により破壊された天主堂の北側の鐘楼は現在の位置まで崩れ落ちたそうだ。それをそのままの場所に残し、原爆の遺跡となっている。

キリシタン布教の地として歴史を持つ浦上地区。
1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した後、「宮教師ルイス・デ・アルメイダが、1567年(永禄10年)長崎の町(大村領)に宣教を開始した」との記録があることから、町に隣接する浦上村(有馬領)にもその頃からキリスト教が伝えられ、村民の間に広まっていったようだ。

そして、1584年(天正12年)、浦上の領主キリシタン大名有馬晴信が、沖田畷(おきたなわて)の戦いで、永年の宿敵佐賀の龍造寺隆信に勝利したことを感謝し、浦上村をイエズス会に寄進し知行地としたことで、浦上村の名前はローマに知られるようになり、名実ともにキリシタンの村となったということらしい。

その後、1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴史、特に1867年(慶応3年)の「浦上四番崩れ」による浦上一村総流罪(当時の浦上地区の全村民3.394名を名古屋以西10万石以上の大名、21藩22か所へ流配し棄教を強いるというもので、流配先で苛烈な拷問や苦役を受け600人以上が亡くなったという迫害事件)にも耐えたキリシタン。

1871年から米欧訪問中であった岩倉使節団が欧州滞在中にキリシタン迫害について大批判を浴びた結果、やっと使節団帰国後の1873年(明治6年)に禁教令が撤廃され、浦上に戻ることを許されたカトリック信徒達は、旧浦上村の庄屋宅跡を購入し、明治13年(1880)補修して仮聖堂とし、その後、明治28年(1895)主任司祭・フレノ神父はロマネスク様式で煉瓦造の聖堂建設に着手、信徒達はレンガを一枚一枚積み上げ、20年の歳をかけ、浦上天主堂を1914年(大正3年)に、その後双塔を1925年(大正14年)に完成させた。
双塔の高さは26メートル、「東洋一の教会」と当時称された浦上天主堂であったが、原子爆弾により、無惨にも破壊された、というのが歴史である。
せっかく20年以上の歳月をかけてやっと完成させたというのに、なんという歴史だろう。

現在の建物は、原爆投下から約14年後の1959年にコンクリートで再建されたのち、1980年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されたものだそうだ。

天主堂の中には「被爆マリア」像が安置されていて、非常に衝撃的だった。
瓦礫の中から奇跡的に発見されたものだそうだ。

お昼は、長崎ちゃんぽん一択だ。
どこに行くか迷ったが、中華街の外れにある、「福壽」に行った。
さすが、地元民から絶大な人気を誇る店。平日だったが、店内でたくさんの人が並んでいて、30分弱待って、無事席につけた。
学校帰りの男子高校生も結構いて、地元の店であることが良くわかった。↓

これが名物のちゃんぽん。スープもまろやかな味でとても美味しかった。↓

えびのすり身をパンで挟んで揚げた「ハトシ」という郷土料理。↓
知り合いが、長崎に行ったらこれも絶対に食べた方が良い、というので食べてみたが、とても美味しかった。
周囲のテーブルの人たちが頼んでいる他の料理も美味しそうで、もっといろいろ注文したかったが、そんなに食べきれないのが残念だった。

満腹になったところで出島にやってきた。↓
出島のことを子供の頃に知った時に、一体どんなところなんだろう、ととても興味が湧いたことを覚えている。

「ミニ出島は、川原慶賀が描いたといわれる「長崎出島之図」をもとに、1820年頃の出島を現した模型です。縮尺は約1/15で、昭和51年に長崎市が作成しました。長崎市は平成12年3月に完成した5棟(ヘトル部屋、料理部屋、二番蔵、一番蔵、一番船船頭部屋)を皮切りに、現地での建物復元に取り組んでいます。」との説明があった。↓

旧長崎内外クラブ↓

「「長崎内外倶楽部」は、明治32年(1899)に倉場富三郎(T.B.グラバーの息子)や荘田平五郎などを発起人として、長崎に暮らす外国人と日本人との交流の場として設立されました。現在の建物は、明治36年(1903)に英国人のF.リンガーによって建てられた洋風建築です。昭和43年(1968)に長崎市が買い上げたのち、資料館や休憩施設として活用してきました。」とのことだ。

倉場富三郎↓ あのグラバーの息子だが、この人のことは今まで知らなかった。

「出島からは、たくさんのガラス製の瓶が出土します。ワインボトルが最も多く、フラスコ型の胴部が張った形のものや筒型のボトルが見つかっています。このほかに角型のジン(ジュネヴァ)瓶も出土します。ジンやビールは、当時のオランダでは一般的な飲み物で、出島でも日常的に飲まれていたことがうかがえます。」との説明があったが、オランダから大量に酒を持ってきて飲んでいたんだろうな。↓

「商館員たちは、1日に2回の食事をしていました。また、年に数回の祝宴や日本人を招いての宴会が出島の中で行われていました。その時に使われた調理道具や食卓に並ぶ食器、ガラス器や酒のガラス瓶など、たくさんの食事に関する遺物が出土しています。また、ゴミとしての貝殻、牛・豚・魚の骨、調味料の容器なども見つかっています。
商館員の日々の食事は、ジャガイモを中心とした簡単なものでしたが、宴会では豪華な食事がテーブルを飾りました。こうした食事は、オランダ人の料理長や雇われた日本人の料理人によって、作られていました。」との説明があった。

この絵にも日本人の女性が描かれているし、出島が隔離されていたとはいえ、実際には、いろいろな日本人が出島に出入りして、オランダ人がどんな生活をしているかを知り、そういう情報が長崎の街の中に人伝てに拡散していったのだろうとすると、当時の日本は鎖国をしていたとはいえ、長崎は間違いなく西洋の情報が溢れる異色の街だったのだろうと思う。

食用として牛や豚まで持ち込んで飼育していた、というのはびっくりした。↓
しかし、たしかに、当時の日本に肉食文化はなく、そうしなければ、商館員たちはとても生活していけなかったのだろう、と合点がいく。

「出島からは、様々な種類の動物の骨が出土します。出島が描かれた絵画の中には、食用として牛や豚が飼われ、ペットとして犬や猫の姿が描かれています。また、見せ物用として珍しい動物が舶載されました。
これらの動物は、一部の犬や猫以外はオランダ船によってもたらされ、出島の東側の庭園部分はさながら動物園のようでした。」

「出島からは、牛の骨が最も多く出土しています。これらは、バタヴィアからオランダ船で運ばれたセブ牛(インド牛)で、出島の飼育小屋で秋頃まで太らせ、食用とされました。この他に、長崎の遊婦の農家からオランダ商館が仕入れた和牛や、東南アジアから琉球一帯に生息する水牛の骨も見つかっています。」↓

商館長にとって最も重要な仕事の一つが江戸参府だった、ということも知らなかった。↓

「江戸参府は、商館長が江戸城で将軍に拝謁し、貿易に対するお礼を申し上げるもので、寛永10年(1633)から毎年行われました。幕府が貿易内容への規制を強めた寛政2年(1790)以降は、4年に1回となりましたが、嘉永3年(1850)の最後の参府までに計166回行われました。正月に長崎を出発し、3月には拝謁をすませて帰るという日程で、往復にはおよそ90日を要しました。」

往復におよそ90日を要した、というのも驚いた。まあ、考えてみれば当然なのだが、大変だっただろうな、と。歴代のオランダ商館長の名前が説明されていたが、大体1年任期で交代していたようだ。ということは、任期1年のうちの1/4をこの江戸参府に費やしていたということか。
調べてみたところ、この江戸参府の際に、商館長は「オランダ風説書」を幕府に提出していたようだ。連合オランダ東インド会社は、日本でキリスト教布教を行わない、幕府に服従し、世界の情勢を「風説書」として幕府に報告する、その見返りとして、幕府は彼らに交易を独占する地位を許可したという図式がよく理解出来たし、この江戸参府が年に一度のいかに重要なイベントであったか納得出来た。

江戸参府には商館医も随行したので、商館長や商館医の日記には、当時の旅の様子を詳しく記したものがあり、商館医だったケンペルやシーボルトも詳しい紀行を残した、との説明があり、あの有名なシーボルトは商館医だったことを初めて知った。しかし、シーボルトはオランダ人ではなく、ドイツ人だったのでは?と思い、少し調べてみたが、どうも東洋学を研究したいために、ドイツからオランダに移り、その後、商館医として来日したという経緯のようだ。

今回、出島に来て、一番興味深かったのは歴史だった。
まず歴史は1543年のポルトガル人漂着から始まり、その6年後、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日、そして1570年には長崎港が開港した。↓

16世紀中頃までの長崎は、人口の少ない村だったようだ。それが1570年の開港後、翌年に6つの町(島原町、大村町、平戸町、外浦町、横瀬浦町、文和町)が造成されると、これ以降、ポルトガル船だけでなく唐船(中国船)や日本の朱印船の寄港地として急速に町が拡大し、ポルトガル船の入港とともに教会の建設も始まり、中国の文化も採り入れて現在の異国情緒あふれる長崎の町が形成されていったとのことである。

世界のどこでも共通ではないかと思うが、港町というのは活気があって独特の魅力があるように感じる。

その後、江戸幕府の時代になり、徳川家康は、最初はキリスト教の布教を熱認していたが、やがて布教禁止強化に動き、1614年には、多くの宣教師や者をマニラに追放するなどの弾圧を開始、さらに、1616年には、唐船(中国船)を除く外国船の貿易港を長崎と平戸の2港に限定し、長崎の岬の突端に、出島を築造することを命じ、1634年に工事着工、約2年かけて1636年に完成、その年の7月に入港した4隻のポルトガル船の乗組員800名が、この島の最初の住人となったという歴史だ。

出島は、↓のように、海に突き出た長い岬の先端部に作られた扇形の特徴的なだったとのことだ。幕府の命を受け、出島を造ったのが、25人の長崎の町年寄級の身分の町人たちだったと知って驚いた(出島町人)。彼らは、幕府が建てた門や塀・橋以外の、家屋や土蔵などを出資した資金で建築し、それらをポルトガル人に貸し出した。当時の賃貸料(出島家賃銀)は、ポルトガルのときには年間銀80貫目、オランダのときには銀55貫目。この銀55貫目は現在価値で約1億円とのことだ。出島町人たちにしてみると、当初、幕府から金を出せ、出島を造れ、と言われて困ったのではないかと思うが、結果的には、かなりうま味のある不動産賃貸ビジネスになったのではなかろうか。

以下の年表の最初に「1662年出島内に伊万里焼の店開店」とあり、非常に興味深い。↓

1602年に設立された連合オランダ東インド会社は、世界初の株式会社とも言われるようだが、出島を通して、西洋やアジア諸国の商品と文化を日本にもたらし、17世紀に多くの利益をあげたが、その後、幕府によって様々な規制を受けしだいに衰退。
連合オランダ東インド会社自体も、オランダ本国の政情不安や東インド会社社員の私貿易の増大などにより、経営難に落ち入り、ついに1799年に解散。↓

ナポレオン戦争の結果、1810年、オランダ王国はフランスに併合されてしまった。この時、イギリスは、アジアのオランダ領を奪い取ろうと、1811~1816年ラッフルズ卿をオランダ領インド諸島(ジャワ島)に派遣していました。彼は、1813年と1814年にオランダ船に装した船を出島に向かわせたが、当時のオランダ商館長ドゥーフは、ラッフルズ卿との交渉にあたらせるため、当時商館員であったブロムホフをバタビア(現在のジャカルタ)に派遣、彼はイギリスに出島を譲ることをきっぱりと断ったという歴史のようだ。
結果として、1815年にネーデルラント(オランダ)王国が誕生するまでの5年間、オランダ国旗を掲げ続けていたのは、世界で唯一出島だけであり、出島はオランダ人の誇りだったようだ。こういう5年間があったことは知らなかった。

もともと、日本との交易については、連合オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が競い合い、連合オランダ東インド会社が競争に勝ったという歴史で、イギリス東インド会社も、出島が出来る前、1613年に平戸に商館を置いたようだが、10年後の1623年に自ら日本をさり、その後はインド統治に集中していったようだ。

そんな歴史を考えると、イギリスはオランダがフランスに併合されたチャンスに、なんとか出島をオランダから奪い取りたかったはずで、当時、オランダはよくイギリスに負けずに出島を死守できたなと思った。
しかし東インド会社というのは非常に興味深い。もっと勉強が必要だ。

そしてついに1859年にはオランダ商館の廃止となる。↓

幕府は、1854年にはアメリカ・イギリス・ロシアと、1856年1月には、オランダと和親条約を締結。1858年には、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を締結し、結果、横浜(神奈川)長崎(大浦)箱館(函館)兵庫(神戸)新潟に外国人居留地が設置され、1859年には神奈川、長崎、箱館が開港し、質易を許可することになり、出島でのオランダだけの貿易は終わりを迎えたという歴史だ。

出島が出来たのが1636年、役割を終えたのが1859年、その間223年とは長い。

長崎での最後の訪問地はグラバー園だ。↓

今、この記事を書きながら気づいたが、グラバー園のWEBサイトはとても充実している。今頃になって復習しながら見ているが、訪問前にもっとよく見るべきだった。

【公式】グラバー園|世界遺産構成要素、旧グラバー住宅を中心として明治期の洋館を移築復元した長崎市の人気観光スポット
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつである旧グラバー住宅を中心に、国指定重要文化財・旧リンガー住宅・旧オルト住宅等、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築し復元した長崎市の人気観光スポット。居…

旧三菱造船所第 2 ドックハウス

「この建物は 1896年、三菱造船所第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎」とのことだ。
見学コースの最初となるここがグラバー園の一番高いところに位置しており、なんとも美しい建物で(移築されたようだが)、眺めも素晴らしく、外国人居留地は当時としても最高級の一等地であったことがよくわかる。

旧オルト住宅も美しい建物だった。↓

オルトは、1859年、なんと19歳の若さで来崎。大酒海岸通りに事務所を建設し、翌年には「オルト商会」を設立。その後、オルト商会は飛躍的に成長し、グラバー商会やウォルシュ商会と共に長崎居留地の発展に貢献した。オルトは土佐藩の岩崎弥太郎と特に親交が深かったようだ。製茶業を足がかりに貿易商として財をなし、オルト一家は1868年までここに居住したようだ。

そして、いよいよお目当てのグラバー亭である。↓
日本の伝統的な建築技術と西洋様式が融合する、現存するわが国最古の木造洋風建築とのことだ。グラバーは 1859年、 21歳で長崎に来航し、1862年にグラバー商会を設立。その翌年、1863年にグラバー邸が建てられた。

「1838年スコットランドのフレーザーバラで生まれたトーマス・ブレイク・グラバーはアバディーンに移り住み少年期を過ごします。青年になったグラバーはイギリスの貿易会社ジャーディン・マセンン商会に入社し、1859年(安政6)、長崎に21歳の若さでやってきました。
当初、彼の業務は、ジャーディン・マセソン商会の代理人ケネス・ロス・マッケンジーをサポートすることでした。しかしマッケンジーは天津条約(1858年)により中国が開港すると、漢口での業務に向けて長崎を去り、全ての業務をグラバーに任せました。グラバーは20歳前半の若さでジャーディン・マセソン商会の代理業務を担うことになり、1862年(安災2)にグラバー商会を設立しました。」

ジャーディン・マセソン商会の前身は、イギリス東インド会社のようで、当時の一流商社に入社した駆け出し商社マンだった、ということかな、と理解した。しかし、その後の活躍ぶりを見るととても普通の駆け出しとは思えない、時代の流れを読み、日本人ともうまく協業する能力を持った、素晴らしいビジネスセンスの持ち主であり、その偉業を見ると、ビジネスだけではなく、まさに近代日本発展の強力なサポーターであったことがよくわかった。

この大きなソテツは薩摩藩から贈られたと考えられるものだそうだ。↓

中には温室もありなんとも優雅だ。

ちょうど大きな客船が停泊していた。

このグラバー亭ももう一人の住人だったのが、グラバーの息子の倉場富三郎だ。↓
出島の「長崎内外クラブ」を作った彼である。
彼の功績については以下を参照。↓

ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 「グラバー邸のもう一人の住人、倉場富三郎」

彼の功績について「混血の富三郎は、長崎の町が商業と観光の拠点となるよう国際交流にも力を注いだ。日本と外国をつなぐ役割を担う親睦団体「長崎内外倶楽部」設立や、「雲仙観光ホテル」「雲仙ゴルフ場」開設などに奔走。「雲仙天草国立公園」の一帯を避暑地として発展させるために尽力し、国内はもとより多くの外国人観光客を雲仙、長崎へと呼び込んだ。」という記載があるが、このあたりは今回の旅行の雲仙滞在時にも学んだ通りで、最盛期には世界30カ国から年間約3万人が訪れたというのだから驚きだ。

しかし混血だった富三郎の人生は常に悩みを抱えたものであったことが分かる。

特に晩年には、この素晴らしいグラバー邸を三菱に売却している。
その理由について、グラバー園の説明は以下のような曖昧なものだったが、、、↓

上記のナガジンのサイトには以下の説明がある。

「国際理解を深めるべく活動した富三郎の努力とは裏腹に、悲劇が起こる。昭和14年(1939)、倉場夫妻は「グラバー邸」を三菱へ売却し、丘の麓にある南山手9番地へ引っ越す。戦艦「武蔵」建造中の造船所を一望できる「グラバー邸」に彼らにスパイ容疑がかけられたのだ。日本人として生きてきた富三郎にとって、それは耐えられない屈辱であった。そして、その苦悩から終戦直後、自ら命を絶ってしまう。」

グラバー園では長崎の日本近代化に関する歴史も学べた。
当時、長崎がいかに重要な場所であったか。

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は全国8県11市に点在する23の構成資産を1つのまとまりとした世界遺産であるが、23の資産のうち、なんと8つが長崎にある。

「長崎は幕府が唯一公認していた西洋文化の窓口であったため、江戸時代を通じて、西洋の科学と技術を受容する伝統が培われていた」との説明があったが、まさにこの伝統があったからこその発展だったのだろうと思う。さらに、幕府、明治政府が創業していた長崎製鉄所(後の長崎造船所)を三菱が継承して以降、石炭産業とともに大きく発展した、と書かれていたが、これも納得である。

昨日、軍艦島(端島炭鉱)を訪問した時も、当時、三菱はよくあそこまで徹底して投資したなと感じたが、「1890年に三菱が経営権を買収して以降、端島は6回に渡る埋め立てを繰り返し、最終的には約3倍の面積を持つ巨大な炭鉱島へと変貌した。端島炭坑は島の地下深くに炭層が存在し、深い堅抗が開削された。明治から大正まで開発された4つの堅抗は、どれも地下160~389mと非常に深い層まで掘り進められている。」との説明がここにもあった。

しかしそこに至るまでに、グラバーやオルトと岩崎彌太郎の緊密な関係があったということがよく理解出来た。グラバーの息子の倉場富三郎が米国留学前に東京の学習院で学んでいた時には、岩崎彌太郎の私邸に下宿していたようだ。

長崎の8つの構成資産を時系列に置くとこのようになる。↓

これで長崎での日程は終了。
しかし、長崎訪問は想像以上の中身の濃さだった。
被爆の街としての歴史、キリスト教信仰と迫害の歴史、西洋文化の唯一の公認窓口としての歴史、日本の近代産業の礎を作った歴史。
ここまでいろいろな意味での重要な歴史を複合的に持つ街はなかなかないなと改めて思った。

グラバー園を出て、クルマを飛ばして、佐賀の嬉野温泉に向かった。
明日は旅行の最後に有田に行きたいので、今日のうちに出来るだけ近くまで移動しておこうという考えだ。

約1時間で、今晩のお宿、嬉野温泉・和多屋別荘に到着。

温泉付きの部屋にしたが、まずは大浴場でゆったりしてから夕食だ。
温泉湯豆腐スープのしゃぶしゃぶというのは初めてである。↓

お豆腐が普通より濃厚で美味しかった。

今日は中身の濃い1日だった。
部屋に戻って温泉に入って就寝💤
明日はこの旅行の最終日。有田に向かう。

つづく

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