2025年12月13日
東京でのゴッホ展の会期終了間際に上野の東京都美術館に行ってきた。
ずっと前から観たいと思っていたのにギリギリになってしまったが、録画しておいたNHKの日曜美術館で予習してから出かけた。


ゴッホの弟のテオがゴッホをずっと支えていたことは知っていたが、ゴッホが1890年に37歳で自殺してしまい、そのわずか半年後に、テオも33歳で病死してしまった後を引き継いで、ゴッホを世に知らしめた功労者はテオの妻のヨーであったということを初めて知った。
ヨーはもともと美術分野では素人だったが、テオが亡くなった時にまだ1歳にもなっていなかった息子フィンセント・ウィレムとともに膨大な数のファン・ゴッホの油彩画や素描、テオが保管していた兄から18年にわたって届いた手紙も、シングルマザーになった28歳の時にすべて相続し、しだいに近代美術、美術館や個人収集家の世界、美術取引の仕組みについて深い洞察力を身につけていった、とのことなのだが、1905年に没後最大の回顧展がアムステルダムで開催されるまでに14年の歳月が経っている。簡単な道のりではなかったことが想像できる。
以下の年表は展覧会公式サイトから拝借している。

そんなヨーの尽力を明らかにするこの上ない資料が以下の会計簿なのだそうだ。
画像は展覧会公式サイトから拝借している。

「当初は夫婦の家計簿で、1889年に新婚のテオとヨーが使い始めた。食料品の購入や洗濯女への支払いなど日々の支出に加え、テオから兄フィンセントへの毎月の送金額や画材の購入についても記録されている。テオの死後、会計簿はヨーが引き継ぎ使い続けた。ヨーがファン・ゴッホ作品の売却を細かく記録したことで、ファン・ゴッホ研究にとっても極めて貴重な資料となった。」とのことである。2002年には、この会計簿の注釈付きの学術書が出版され、ファン・ゴッホが描いた170点以上の油彩画と紙に描かれた作品44点が特定されたのだそうだ。
ヨーは売却に際して、できるだけ多くの国にゴッホの絵が渡るように売却先を考えたとのことだし、1924年に「ひまわり」をロンドン・ナショナル・ギャラリーに売却したのも、それがゴッホの絵の価値を高めることに大きな意味があると考えてのことだった、と。
実の弟のテオが兄のゴッホの才能を確信して支援し続けたのは、血が繋がった兄弟であればこそ、という気もするが、ヨーの場合は、ゴッホとは全く血のつながっていない赤の他人であり、またもともと美術にも全くの素人であったということを考えると、生前テオからゴッホの話を聞き、その後、テオが残したゴッホの膨大な手紙を整理しながら読み込んで、ゴッホの絵に対する思いを理解し、それに心から共感したからこそ出来た行動だったのだろうと感じた。
そのあたりは以下の対談で原田マハさんもコメントしている。↓

今回の展覧会の最初の一枚がこの絵だったのがとても面白かった。
ジョン・ピーター・ラッセルが描いたゴッホの肖像画である。↓ 画像は展覧会公式サイトから拝借している。
「オーストラリア出身のラッセルは、パリでファン・ゴッホと出会い親しい友人となった。本人の自画像よりもよく似ているというこの肖像画は、ファン・ゴッホのお気に入りであった。南仏に移った後にも、「ラッセルが描いた僕の肖像を大切に扱ってほしい。僕にとってとても重要なものだ」とパリにいいるテオに手紙で頼んでいる。」というのがこの絵の解説だ。
一方で、ゴッホは自分で描いた自画像(今回展示されていたもの)が気に入っていなかったのだそうだ。ヨーは、あの絵は、ゴッホをとてもよく描いている、似ていると言っていたらしいが。
たしかにラッセルが描いた肖像画のゴッホの方が遥かにカッコイイと思うので、この絵をゴッホが気に入っていたというのは大いに頷けるし、最初の一枚にこの絵を持ってきたのはナイスと思った。

今回、私が一番好きだったのは、ゴッホの自画像とともにパンフレットに掲載されていたオリーブ園の絵だ。↓ 画像は展覧会公式サイトから拝借している。
「さまざまな表情を見せるオリーブの木々を捉えようと、「寒いけれど美しく澄んだ日差しで明るいこの時期の朝夕に」オリーブ園で制作したという。本作では筆触をリズミカルに使い分け、より様式化された画風が試みられている。テオ宛ての手紙では、「田舎らしさを感じさせ、大地の香りがする作品になるはずだ」と自信を見せている。」と解説されていた。

我が家にも、ゴッホのオリーブ園の絵(ポスター)がある。↓
ドイツに住んでいた2006年4月にサン・レミ・ド・プロヴァンスを訪れた時に購入したものだ。
額は、その後、移り住んだウクライナのキエフ(現在のキーウ)で、このポスターに合わせてあつらえてもらった。当時、ウクライナは良い額が非常に安かったのだ。絵と額が合っていてとても気に入っており、家をリフォームした時に、この大きな額を天井から吊るして毎日眺められるようにしてもらった。

これが、ゴッホが入院していた療養所のそばにある、そのオリーブの木々である。↓

写真の右に見える建物が、ゴッホが入院していたサン=ポール療養所だ。↓

サン・レミ・ド・プロヴァンスの街並みはとても印象的だった。
この写真では雲が多いが、日差しがキラキラしていて、こういう明るい乾いた光があるから、あのオリーブ園の絵のような作品が生まれるんだなと合点がいった記憶がある。


最後のイマーシブ・コーナーは撮影可であった。↓
最近、こういう美術の楽しみ方がポピュラーになってきたようで楽しい。私が初めて体験したのは、角川武蔵野ミュージアムでのダリだった。


しかし、この日は混んでいた。
会期終了間際の週末だし、日本人が大好きなゴッホだから仕方なし。
このゴッホ展も今年の7月に大阪で始まり、その後東京、そして来年は名古屋で開催されるわけで、そんなにゴッホは日本で好かれているんだなと思う。
ゴッホは日本の浮世絵が大好きで影響もたくさん受けた人だから、もともと日本人と何か通じているものがあったのではないだろうか、だからこれだけ多くの日本人がゴッホを好きなのではないだろうかと、いまさらながらに思った。
また、ゴッホというと、今まで、変人・奇人的な印象が強かったが、今回の展覧会で、こんなにも彼の作品を愛して、時代を超えて繋げてきた家族がいたんだ、ということを知って、ゴッホに対するイメージがずいぶんと変わった。
今年の8月に箱根のポーラ美術館で観たゴッホ・インパクトも良かったが、今回もとても良い企画であった。
今日も平和で美しいものをたくさん観れて幸せだった。
感謝である。
おわり


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