2026年3月1日
モネ没後100年だそうだ。
「オルセー美術館から世界最高峰のモネ・コレクション、一挙来日」である。
私の大好きな「かささぎ」もやって来るとなれば行かないわけにはいかない。
本当は少しでも空いているはずの平日に行きたかったのだが、早めのタイミングで行けるのが日曜しかない。せめてまだ混雑が酷くなさそうな閉館間際の16:30〜17:30のゾーンで予約した。
アーティゾン美術館に行くのは実は初めてである。
「ミュージアムタワー京橋」の1〜6階が美術館、7〜23階はブリヂストンおよびグループ会社のオフィスが入っているらしい。
旧ブリヂストン美術館が建て替えを経て、2020年にアーティゾン美術館としてリニューアルしたものとのことだ。


「「ARTIZON」(アーティゾン)は、「ART」(アート)と「HORIZON」(ホライゾン:地平)を組み合わせた造語で、時代を切り拓くアートの地平を多くの方に感じ取っていただきたい、という意志が込められています。」とのことだ。

入口のごあいさつには以下のように書かれていた。
+++++++++++++++++++++
(前略)印象派の巨匠クロード・モネ (1840-1926)は、自然光の移ろいに魅せられ、その美しさをカンヴァスにとどめようと生涯をかけて探求しました。オルセー美術館がモネの没後100年という国際的な記念の年の幕開けを飾る展覧会と位置づける本展では、ル・アーヴル、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ジヴェルニーなど、モネの創作を語る上で重要な場所と時代から、その画業の発展を丹念にたどります。
(中略)
モネの作品41点を含む、オルセー美術館所蔵の約90点に、国内の美術館や個人所蔵作品を加えた合計約140点で、風景画家としてのモネの魅力に迫ります。近代化が進み、風景が大きく変わる時代に生きたモネは、変わりゆく風景とどう向き合い、それをどう作品に表現したのでしょうか。自然環境が変動する今、モネのまなざしを通して「自然とどのように向き合うのか」という普遍的な問いを、現代を生きる私たちに投げかけます。
(後略)
++++++++++++++++++++
以降、+++++で囲まれた文章は、会場の解説、もしくはフリーの音声ガイドからの引用である。
ネットに繋げばどこからでも視聴できるフリーの音声ガイドはとてもありがたい。
今回も予習と復習に多いに活用して、一粒で何度も美味しいという気持ちにさせていただいた。
◼️セクション1 モティーフに最も近い場所で
モネの生涯の全絵画作品約2,000点のうち、なんと1,800点が風景画であるそうだ。
だが、今回知ったのは「初期のモネの作品が風景画ではなく人物画だったことは忘れられがちである。風景画を探究する前、彼は人物戯画(カリカチュア)を描いていた。1850年代、モネの描くカリカチュアは、子ども時代から思春期にかけて過ごしたル・アーヴルで、輝かしい成功を収めていた。」ということだ。
その後、モネは、1857年にウジェーヌ・ブーダン(1824-1898)に出会い、決定的な影響を受け、当初ブーダンの海景画に関心を持っていなかったが、その時からこの先輩画家の例に倣い、「海と空と生き物と人と木々を、その特性や実際の様子とともに、自然が作り出したままの姿で、ありのままの光と大気の中で」観察し、愛する者になったのだそうだ。
モネの風景画の師匠、ブーダンの1873年の作品「洗濯女のいる風景」↓

次が私の本命だ。
◼️セクション3 くかささぎ)とその周辺 一 雪の色
このセクション冒頭の解説は非常に興味深かった。
特に、解説中にあるルノワールの白についての言葉だ。
++++++++++++++++++++
雪は、モネの画業のいくつかの時期でのインスピレーション源となった。このような点でモネは西洋絵画史の長く豊かな伝統に連なっている 一 雪は月や季節の表現の中で冬を象徴する。(中略)なお、印象派の画家たちは雪が降っている瞬間にはほとんど関心を示していない。彼らは雪を風景画の構成要素のひとつとして描いている。雪は何よりもまず、輝く面であり、白色であると同時に色彩を帯びているのだ。
モネとのちに印象派と呼ばれることになる画家たちは、雪に、試行錯誤にうってつけのテーマを見出し、「雪の効果」を多く描いた。(中略)モネは1867年にサン=シメオン農場の雪の積もった道を表現している。2年後の1869年に制作されたくかささぎ> では、バラ色、薄紫色と青色の繊細な濃淡に加え、逆さにつけられた鳥の影により、モネの白色の研究がさらに推し進められている。モネと印象派の画家たちにとって、雪は、白色の単調さを知り、そこから逃れる手段だった。それは彼らの色彩へのアプローチの典型例である。印象派の絵画において、色は恒常的でも絶対的でもない。それは本質的に偶発的で一時的な光と色の相互作用によって達成される。風景の中にあるものや対象の色は、時刻や、そのまわりのものがもたらす反射、それをとりまくものの色との関わりにより、刻々と変化する。この雪の情景の中には、というものの、瞬時性、変移性、周囲との関連の必要性が特に明白に表れている。ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)はこのように力説した。「白は自然のなかには存在しない。あなたのこの雪の上には空がある。あなたの空は青い。そのブルーが雪の中に際立たなければならないのだ。朝、空の中には緑と黄色がある。あなたがこの絵を朝描いた、と言うのなら、それらの色が絵の中に見えなければならない」。彼はこう続ける。「そこに白を塗るのではなく、それがとりまくもののヴァルール(色価)によって、自にその強さを与えなければならないのだ」
++++++++++++++++++++
「荷車、オンフルールの雪道」、1867年頃。↓

「霜」、1880年。↓

「かささぎ」、1868-69年。↓
この絵は私のお気に入りである。今回の展覧会のメインの目的はこの絵だ。
久しぶりにこの絵を観て、あれっ前に観た時より絵が明るい気がする、と思ったのだが、勘違いではなかったことが以下の解説で確認出来た。
画面のほとんどが白だが、それぞれの白が異なっていて、近くで観たり離れて観たり、この情景の空気感を想像しながら、ずっとこの絵の前に佇んでいたい気分で、やはりこの絵はいいな、と大満足であった。
++++++++++++++++++++
(かささぎ)は修復後、初めての公開となる。クロード・モネの没後100年を記念して、オルセー美術館はモネの主要な作品数点の修復をおこなった。このプロジェクトの一環で(かささぎ)の科学調査と修復処置がなされた。経年劣化により黄変した上層のニスを取り除いたことで、モネの清々しく鮮やかな色彩がよみがえった。
++++++++++++++++++++

次は
◼️セクション4 風景画と近代生活
+++++++++++++++++++++
ロンドンやオランダ旅行から帰国した1871年の12月から1878年1月まで、モネはパリ近郊のアルジャントゥイユに居を構えた。その間、1872年から1874年にかけて、サン゠ラザール駅にほど近いパリのイスリー通りに自分名義のアトリエを借りていたが、そこで描いた259作品中およそ156点がアルジャントゥイユおよびその近郊に想を得たものとなっている。この時期、パリはもちろんのこと、ルーアン(1872年と1873年)、ノルマンディー(1873年)、ル・アーヴルやアムステルダム(1874年)、あるいはモンジュロン(1876年)といった地で創作活動をしていた。
+++++++++++++++++++++
以下の3枚の絵は、左と右が好きだなと思って近づいたら、シスレーとモネであることが分かり、自分で納得した。↓


ボート、アルジャントゥイユのレガッタ ↓
雪景色ではないが、この白も色々な白があって、まじまじと眺めてしまった。↓

アルジャントゥイユのレガッタ ↓
以下の解説にもあるが、水面の描き方というか表情がとてもいいなと思った。
++++++++++++++++++
パリ近郊の町、アルジャントゥイユはこの作品が描かれた頃、1830年から流行が始まったカヌー遊びの場所として大変親しまれていました。ここはセーヌの川幅が最も広く、1867年の万国博覧会の時には国際レガッタ競技の開催場所となりました。モネは、1871年12月から1878年1月までアルジャントゥイユを活動の拠点としました。この時期に生み出した170点ほどの油彩の半数にセーヌ川の岸辺が描かれています。この作品では、何隻かのヨットがアルジャントゥイユの向こう岸にあるプティ=ジュヌヴィリエに沿って進んでいます。空と水が画面の大半を占めていますが、中央の鮮やかな色彩が構図を分割しています。ヨットや家、樹々が分割され、ひと続きになって水に映っています。モネは水面の一瞬の表情を巧みに捉えています。
+++++++++++++++++++

今回は観ることができなかったが、「アルジャントゥイユの雪」というモネの作品 ↓ を2023年11月の上野のモネ展で観て気に入っていたので、アルジャントゥイユといえば雪、という印象を勝手に持っていたが、実はレガッタの絵が有名だったのかと初めて知った。

昼食 ↓
この絵は実際に観ると、すごく光の陰陽が鮮やかに見えた。
++++++++++++++++++++
この屋外の情景で、モネは装飾的才能を発揮させています。モネが暮らしたアルジャントゥイユの家での、家族の昼食が主題として描かれています。絵の中に見えるのは、残された果物、散らかった食器類、ベンチの上に置かれたままのいくつかの小物など、静物画のように描かれた食事の痕跡です。人物は画面の端に追いやられ、誰だか見分けられるのは、遊びに夢中になっているモネの幼い息子ジャンだけです。いくつかの花壇と家の外壁により、緻密で完全に閉じた構図が作られ、それが小径を光で満たす日射しをさらに色鮮やかに見せています。モネは光と影のゆらぎによる色調の鮮やかさを表現するために、非常に巧みな方法をとっています。この絵の親密な雰囲気ゆえ、この装飾画がナビ派のボナールやヴュイヤールに影響を与えたことが指摘されています。
++++++++++++++++++++

トルーヴィル、ロシュ・ノワールのホテル ↓
この絵は事前に予習で見た時の印象より、実際に観たらとても良かった。この絵も実際に観ると「陰陽の対比」がもっとはっきり感じられ、明るい部分がキラキラと輝くようだった。
++++++++++++++++++++++
1870年の夏、モネは新妻のカミーユと息子のジャンを伴ってトゥルーヴィルに滞在しました。ある晴れた日、モネはホテル、ロシュ・ノワールの壮麗なファサードを描こうと足を止め、上流社会の人々が海辺で社交する様子を画布に捉えました。モネは縦長の構図を選び、ホテルの長いファサードを斜めから描いています。建築自体を際立たせることなく、画面下の部分で散歩する人物像の安定感と、画面上の部分の旗竿に掲げられた色鮮やかな旗や風に流される雲の動きの対比に焦点を当てています。力強く太い筆致で雰囲気を表現し、風にはためく旗や素早く空を横切る雲を際立たせ、さらに前景の旗のストライプの赤と白、筆触の鮮やかさと即興性、モティーフから直接描かれたラフな人物像の描写、ホテルの足元に踊る影とまばゆい光など、鋭い対比を巧みに描きだしています。
++++++++++++++++++++++

チュイルリー公園 ↓
この絵は木の描き方がいつものモネの印象とはちょっと違うなと思った。

サン=ラザール駅 ↓
ヨーロッパの鉄道の駅の作りはいいなあと思う。外から入ってきて、行き止まりで止まって、また外に出ていく、という感じ。ただし、この絵は工業化による公害を示唆している部分もあるようだ。
++++++++++++++++++++
1877年のはじめに、モネはサン=ラザール駅を描いた作品に取り掛かりました。ここは、モネにとってなじみのアルジャントゥイユなど、パリの西郊外やノルマンディー地方に向かう列車の発着駅なのです。モネは、駅に絶え間なく溢れる活力に魅了され、あっという間に描きあげました。数カ月後に開かれた第3回印象派展には、それぞれ異なった角度でサン=ラザール駅を捉えた8点の作品を出品しています。この作品で画家が描き出そうと努めているのは、駅に入ってくる機関車の姿。もくもくと吐き出される蒸気がガラス張りの大屋根に満ちていこうとする瞬間です。蒸気の渦が列車の周りに広がり、わたしたちの目前に迫って来るようです。蒸気の白と機関車の黒がコントラストを形作っています。機関車からは、鋭い汽笛が聞こえてくるようです。
++++++++++++++++++++

パリ、モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日 ↓
この絵はカッコよかった。フランス国旗のトリコロールカラーが効いている。
状況や設定は全く違うが不朽の名作「レ・ミゼラブル」で若者たちがバリケードを張ったワンシーンを思い出してしまった。
++++++++++++++++++++
描かれているのはパリでの開催が3度目になる万国博覧会期間中の、1878年6月30日に行われた祝祭の様子です。万博の成功は第三共和制の指導者たちにとって重要課題でした。実際それは1870年にフランスが普仏戦争でプロシア軍に破れてから、パリで繰り広げられた初めての大規模イベントでした。博覧会は大成功を収め、来場者数は1600万人を超えました。これを祝して、政府は「平和と労働の大祭」と名付けた国の祝日を設け、パリに住む人々は呼びかけに応じ、各自、家の窓から三色旗を吊下げたのです。当時労働者階級の人々の住む質素な界隈の通りを、モネはすばやく活気のある筆のタッチで描いています。とても独創的な俯瞰的視点により、国旗のはためきや人々の熱気、そしてこの一日の歓喜までが伝わってきます。
++++++++++++++++++++

フリーの音声ガイドで、このモントルグイユ街が現代において実際にどんな感じか確認できるのも良かった。↓
++++++++++++++++++++
かつての中央市場(レ・アール)から北に伸びるモントルグイユ街には食にまつわるさまざまな商店が立ち並び、現在も活気がある通りです。モネと同年に生まれたフランスの小説家エミール・ゾラは、中央市場とその周辺を舞台とした著書を「パリの胃袋(Le Ventre de Paris)」と題しました。(「ルーゴン・マッカール叢書」第3巻)
++++++++++++++++++++
続いて
◼️セクション5 四季の循環と動きのある風景
このセクションの冒頭にあった以下の解説を読んで、解氷の絵と妻カミーユの死が重なって、なんとも寒く冷たく凍りつくような気持ちで絵を眺めた。
+++++++++++++++++++
モネの初の個展がパリで開かれた1880年、画家に関する最初の詳細な記事とインタビューが出版された。インタビューの場所はモネが1878年から1881年にかけて住み、仕事をしたヴェトゥイユの新しい住まいである。
パリから約60km 北西にあるヴェトュイユはその頃、人口が600人をわずかに上回るにすぎない小村だった。「ヴェトゥイユのセーヌ河畔の魅惑の地に居を構えました」そして「また田舎暮らしになりました」とモネは手紙に記している(モネからウジェーヌ・ミュレへの手紙、1878年9月1日、モネからデュレへの手紙、1879年2月8日)。セーヌ川を見下ろすヴェトゥイユは農業が主体の村で、数多くの果園が広がっていた。しかしモネが1878年9月にこの地を選んだのは、その魅力だけが唯一の理由ではない。パリや、それまで暮らしていたアルジャントゥイユよりも、そこは物価も安かった。とはいえモネがヴェトュイユで暮らした3年間は、時として困難や苦渋を伴うものだった。アルジャントゥイユ時代よりもモネは孤立し、パリへ出かける回数も減る。とりわけ、マント街道の家では、モネと、すでに病状の重い妻カミーユ、そして2人の息子たちは、破産したばかりの実業家で美術蒐集家だったエルネスト・オシュデ、のちにモネのパートナーとなるオシュデの妻アリス、そしてオシュデ夫妻の6人の子どもたちとひとつ屋根の下に身を寄せ合うことになった。この家庭内の複雑な関係に、経済的な苦境が加わる。彼の画廊主であるポール・デュラン=リュエル(1831-1922)は破産に瀕して絵画の購入を中断し、モネは生活苦に陥った。風景画は一点数百フラン足らずでもほとんど売れず、買い手はめったにいなかった。
中略
季節の移ろいと天候によって定義された風景画はまた、ほとばしる春の生命力と、1879年9月5日にヴェトゥイユで32歳の生涯を閉じた妻カミーユの喪をしるす、凍てつくような構図の間の心情も映し出している。1879年から1880年にかけての厳冬は、モネの連作の中で最もメランコリックなものに数えられ、セーヌ川の解氷(氷結した氷が突然割れること)を描いた20点の絵画は、カミーユの死に対する胸の張り裂けるような未霊である。彼女の最後の肖像(cat.no.53)は風景画のように構成されている。彼女の顔は波に運び去られていくかのようである。セーヌ川に押し流されていった氷の塊のように。
++++++++++++++++++++
ヴェトゥイユの解氷とラヴァクールの風景 ↓

氷塊↓

死の床のカミーユ↓
なんとも美しい絵なのだが、死にゆく妻も作品になってしまうとは、、、

◼️セクション6 1880年代の風景探索
1880年代、モネは頻繁に自宅を離れ、風景画制作の旅行に赴いたようだ。
++++++++++++++++++++
(前略)
モネは、自分がそれまで描いたことのなかった土地も探索していった。制作地を地図でたどると、それが当時フランスで生まれつつあった観光地や鉄道網と重なっていることがわかる。この意味でいうなら、モネは自らの風景を「発明した」のではない。旅行ガイドブックでお墨付きになった、ホテル付きの観光地を巡っていたのである。たとえば、1883年、1884年、1888年の地中海沿岸地方。1886年にはベリール島を含むブルターニュ地方。1889年にはクルーズ地方。これらの「田舎」から、彼は十数枚の作品を生み出した。時には恐ろしい天候の現場で制作を始め、ジヴェルニーのアトリエに持ち帰って仕上げたのである。人物の描かれていないこれらの風景画によって、モネは、この時代で最も偉大な風景画家のひとりとして名を上げることとなる。
(後略)
++++++++++++++++
以下の3枚の絵はいずれも荒々しい海の絵だが、白の表現が興味深かった。その前の雪の絵の白に通ずるものがあるな、色々な表情の白が効いているなと感じた。
ベリールの岩、コート・ソヴァージュ、1886年 ↓

雨のベリール、1886年 ↓
++++++++++++++++++++
モネは1880年代、新しいモティーフを求めて盛んに制作旅行に出かけ、フランスの景勝地を数多く描きました。モネが1886年9月から11月末まで滞在した、「美しい島」という意味の小さな島ベリールは、ブルターニュ半島の南にあります。フランスのブルターニュ地方は多くの画家に愛された土地でした。モネがベリールを描いた油彩画は現在40点ほどが知られています。画面の中ほどには、ポール=ドモワ湾の中央に位置する「ギベル」と呼ばれる岩が見えます。激しい雨音が聞こえてきそうな横なぐりの雨は、斜めのタッチで表現され、遠くの岩は雨でかすみ、しっとりと濡れています。海を描く多彩な色の曲線はその深さを物語り、スピード感に溢れた筆遣いからは波の荒々しさが伺えます。岩に波が砕け散るこのイメージには、北斎など日本美術からの影響があるといわれています。
++++++++++++++++++++

嵐、ベリールの海岸、1886年 ↓

戸外の人物習作 一 日傘を持つ右向きの女、1886年 ↓
勉強不足で知らなかったが、この絵のモデルの女性はそういう人だったのかと以下の音声ガイドの解説を聞いて知った。カミーユの死後7年後の絵なんだなと思いながら観た。
++++++++++++++++++++
モネの友人で小説家・批評家のオクターヴ・ミルボーは、こう記し、作品を称賛しています。「太陽のふりそそぐ丘陵…を、しなやかに、軽やかに、重さを感じさせず、ひとりの女性が進んでいく。…奥行きを感じさせる線描は、たぐい稀な優美さ、精緻さ、感性と、デッサンのスケールの大きさを兼ね備え、実に見事で驚くべきものがある。」モデルは、モネの支援者エルネスト・オシュデとアリス夫妻の三女シュザンヌです。モネは先妻カミーユを1879年に亡くしますが、その後、エルネストと死別していたアリスがモネのパートナーとなり、ふたりは1892年に結婚します。モデルのシュザンヌは、光と大気に包まれており、あらゆるものが震動しているようです。モネは人物そのものではなく、彼が「包み込むもの」と呼んだ、戸外の効果によって変化する、風景の中の人物像に関心を示しているのです。
++++++++++++++++++++

以下の2枚はモネの絵っぽくないなと思いながら観た。
オランダのチューリップ畑 ↓
「短期間ではあるがオランダを訪問し(1886年4月27日から5月3日)、そこで「目を射貫くほど輝かしい赤や白の」チューリップの花盛りに魅了されて」描いた絵とのこと。モネの絵でこんなにはっきりした赤が多用されている絵を観たのは初めてと思う。

ボルディゲーラのヴィラ ↓
これは、調べたところ、1884年にイタリアのボルディゲーラ滞在中に描いた絵のようだ。
こういう南国風の樹木が描かれたモネの絵を観るのは私は初めてだった。

◼️セクション7 ジャポニズム
ジャポニズムはよく知られているがこのセクションの冒頭には以下の解説があった。
++++++++++++++++++++
「ジャポニスム」とは、1860年代から20世紀初頭にかけて、フランス、後により広く西洋に日本の文化、芸術が与えた影響のことをいう。
(中略)
日本の美術は、1860年代から20世紀初頭にヨーロッパが経験した芸術における物の見方の改革に寄与した。すなわち新しい表現を模索する芸術家たちによる日本美術の参照と自らの作品への応用が見られた。すなわち葛飾北斎(1760-1849)や歌川広重(1797-1858)をはじめ浮世絵作家の多くの版画の中に、フランスの芸術家たちは色彩、素描、配置、遠近法、形態について新しい表現を発見した。
(中略)
モネと浮世絵の出会いについて、モネが日本からの輸入品の包装紙として使われていた日本の版画、すなわち浮世絵を初期のル・アーヴル時代、もしくはオランダのザーンダムに滞在中したがって1871年)に発見したことが作家オクターヴ・ミルボー(1848-1917)によって伝えられている。
(中略)
モネがジヴェルニーに移住したのは1883年。1890年に同地に屋敷を購入し、その母屋の壁には浮世絵が飾られた。また、自邸の庭に大きな池を掘り、日本風の太鼓橋を架け、睡蓮や、アイリス、牡丹など、日本を想起させる植物を多く育てていたことはよく知られている。
こうした日本美術への造詣は、モネに新しい色調、連作形式、対象にクローズ・アップした構図といった彼の絵画様式の新しい要素を導入する契機となった。さらに一連の「睡蓮」連作においても、日本美術に学んだ視覚表現が行われた。モネは、時代の精神と自分たちの感性に見合った新しい芸術を作り上げるため、モティーフの選び方と空間の処理、そして色彩もしくは光の表現において、浮世絵の様式研究により、新しい価値観を提示しようとした。
(中略)
モネが実際どのように浮世絵のコレクションを形成していったかは、定かでないが美術商サミュエル・ビングら美術商との交流、あるいはコレクター同士の交流を通して、形成されていったものと推察される。
林忠正(1853-1906)もそのひとり。1878(明治11)年に第3回パリ万国博覧会へ起立工商会社の社員として渡仏。その後パリにとどまり、1890年にはド・ラ・ヴィクトール通り65番地に美術工芸品を扱う店を構えた。林が日本から持ってきた絵画や工芸品や浮世絵などは、パリの日本美術愛好家たちに熱心に受容され、ジャポニスム隆盛の大きな原動力となった。モネは、ジヴェルニーにやってくる日本人の画商や、モネの作品を求める蒐集家たちを大いに歓迎した。
(後略)
+++++++++++++++++++
アルベール・バルトロメ作、林忠正の面 ↓
これはなんともインパクトのある作品だった。
上記の解説の中にも記載がある林忠正である。
林忠政については私自身でもっと勉強する必要がある。
なお、上記の「モネの作品を求める蒐集家たち」のひとりが、上野の国立西洋美術館が作られる背景であった「松方コレクション」で有名な松方幸次郎だったんだなと改めて思った。

◼️セクション8 連作一反復一屋内風景
このセクションの冒頭にあった以下の解説には、非常に納得した、というか、モネのような屋外の光の中で大自然を描いてきた画家であれば、経験を積むにつれて、その光の変化でどのように見え方が変わるのか、ということを描きたいと思うようになるだろうな、と思った。
++++++++++++++++++++
1890年、すでに50代を迎えていたモネの画業に転換期が訪れた。
1880年代の絶え間ない旅行ののち、1883年に居を定めていたジヴェルニーで、より多くの制作時間を過ごすことになる。単独のモティーフを描くのではなく、同じテーマから着想を得た一連の絵画を制作した。風景画家として出発した当初から、モネはひとつのモティーフを再度あるいは繰り返し描くのが好きだった。
(中略)
1886年、モネはベリール島からこう記している一「つくづく思うのですが、真に海を描くためには、同じ場所で、毎日、毎時刻海を見つめて、その場所の命を知ろうとしなくてはなりません。ですから、同じモティーフを4回、いや6回も繰り返しています」(アリス・オシュデに宛てたクロード・モネの手紙、1886年10月30日、LetterW 730)。
(中略)
ジヴェルニーの自宅近くにあった積みわらの絵の場合、取り掛かり方は異なっていた。農民が収穫の後に積み上げた干し草の山という、身近で見慣れたテーマをモネは選んだのである。1890年の夏の終わりから1891年の冬にかけ、季節や時刻の移り変わりに従って、少なくとも25点の積みわらの絵が描かれた。光と大気の細やかで精緻な観察という仕事に画家は没頭する。「やればやるほど、自分が求めているものを表すには、もっと働かなくてはならないということがわかってきます。求めているのは『瞬間にあるもの』、とりわけすべてを包み込むもの、至るところに広がる同じ光です」。1890年10月7日、ギュスターヴ・ジェフロワに宛ててこう書いている(Letter W 1076)。
1891年5月、モネはデュラン゠リュエル画廊で、15点の積みわらの作品を展示した。他の作品とともに並べられたのだが、それらは「積みわら連作」としてカタログに記されている。
(中略)
1892年、次いで1893年。モネはゴシック大聖堂を描くため、ルーアンに数週間滞在する。この2回の滞在で、30作ほどの「大聖堂」連作が描かれ、1894年にアトリエで仕上げられた (cat. nos. 82,83)。モネが建築物にこれほど徹底してこだわったのは初めてのことだ。
大聖堂正面がもっぱら集中的に取り上げられ、ルーアンの街に関しては、それと見分けられるものは何も描かれていない。量天や晴天、夕方や朝により、変化する光に対応した色彩の変容をモネは描き出した。
「万物は変わりゆく。たとえそれが石であっても」と、妻アリスに宛てて書いている(1893年4月5日、Letter W 1208)。石の感じを表すために絵具が厚い層で塗られていることが多いものの、この巨大建造物は堅牢さを失い、色彩と光の塊になっている。1895年に、パリで20点の「大聖堂」を展示。大成功を収めた。モネの友人である政治家のジョルジュ・クレマンソーは、この「大聖堂の革命」を称えている。
これまでモネは、自分は何よりも、自然のスペクタクルの前で味わったものを描こうとしている、と繰り返し語ってきた。しかし1890年代以降、大地の持つ自然の力の描写は減り、光や色合い、大気といった無形で触知しがたいもの、あるいは、時間の経過や移ろう光の効果のように捉えがたいものが表現されるようになる。
(後略)
++++++++++++++++++++
ルーアン大聖堂 扉口 朝の太陽 ↓

ルーアン大聖堂 扉口とサン゠ロマン塔 陽光 ↓

ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光 ↓
無料音声ガイドの解説(以下)を聞いて、ジヴェルニーの自宅に戻り4年の歳月をかけて作品に手を加えて完成させたのか、と知って驚いた。また、この絵は実際に観ると、陽の当たっている部分が想像していたよりとても明るかった。
++++++++++++++++++
モネが1870年代初頭にロンドンを訪れた時にはあまり興味を惹かなかった景色が、世紀の変わり目になると彼の心を捉えることになりました。この作品では、ロンドンを代表する建築で「国会議事堂」のウエストミンスター宮殿を、ヴィクトリア・タワーと共に、テムズ川の対岸から見た姿を描いています。あらゆるものは実体を失い、夕焼けの中に溶け込んでいます。建物はそれと見分けることができるものの、画家はいくつかの変更を加えています。例えば塔のプロポーションは引き延ばされています。テムズ川に映る陽の光の戯れがこの作品に幻想的な性格を与えています。モネは、ジヴェルニーの自宅に戻り4年の歳月をかけて作品に手を加え、さらに何点かの風景を新たに制作して仕上げたのち、1904年に37点の連作としてパリのデュラン=リュエル画廊に展示しました。
++++++++++++++++++++

黄昏、ヴェネツィア ↓
++++++++++++++++++++
1908年9月末、67歳のモネは、2番目の妻アリスとともに初めてヴェネツィアを訪れました。健康と視力の衰えに悩まされていた当時のモネにとって、この旅は良い気分転換となり、2カ月ほど滞在しておよそ30点の作品に着手しました。夕日に染まる海に浮かぶのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。教会の向こう側に沈みゆく太陽の燃えるような光が、空、水面、教会を輝かせています。海の色は水平線に向かうほど赤みを増し、逆光の中の教会は、細部を省略したシルエットで表わされています。画面の上から下へ、オレンジ色を中心に青と緑で描かれた、空と海の鮮やかな色彩は、この景色に魅了された画家の想いを反映しているかのようです。モネはヴェネツィアの黄昏の作品をほぼ同じ構図でもう1点制作しており、そちらは現在イギリスのカーディフ国立博物館に所蔵されています。
+++++++++++++++++++++
もう30年以上前に、今は亡くなってしまった当時の親友と共にヴェネツィアを訪れた時に、ちょうどこのような夕暮れ時にこの教会を眺めることが出来て、いつまでもずっとこの景色を眺めていたいと思ったことを思い出した。

◼️セクション10 写真室 3:ジヴェルニーの庭のクロード・モネ
ジヴェルニーのモネの庭 ↓
以下の無料音声ガイドの解説の、庭のメンテナンスに6人の庭師が必要だった、という部分を読んで、そうだよな、あれだけの庭の世話をしようと思ったら、それぐらい、あるいはもっと多くの庭師がいないと無理だよな、と2008年にジヴェルニーの庭を訪れた時のことを思い出した。
++++++++++++++++++++
モネは、ジヴェルニーの自分の庭園に情熱を注ぎこみました。色、形、開花期という観点から植え付けの植物を選び、苗木商や植物学者の意見を取り入れつつ、長い時間をかけて一枚の風景画のように庭をつくりあげました。庭園のメンテナンスには6人もの庭師が必要でした。小経に沿って帯状に植えられているのは、モネがとりわけ好んだ青紫のアイリスです。画面下の左端から対角線が伸び、じきに赤っぽい幹の木々にぶつかります。背景には、家屋の壁の薔薇色、そして、画面全体を占める鬱蒼とした植物の中に埋没する鎧戸の緑が見えます。画家は画面の上下で描き方をさまざまに変化させました。 緑と茶色の色調の画面上部では、縦方向に並べるようなタッチ、画面下では、もっと色の階調を広げ、より自由で丸みのある筆遣いが確認できます。
++++++++++++++++++++

エティエンヌ・クレマンテル撮影、
ジヴェルニーの庭の睡蓮の前で横を向いて立つクロード・モネ ↓
このセクションの冒頭にあった以下の解説にある、当時のフランスにおける政治家と芸術家の関係が非常に興味深かった。
+++++++++++++++++++
フランスの中部高地、マシッフ・サントラル地方出身のエティエンヌ・クレマンテル(1864-1936)は、第三共和制の時代に輝かしい政治経歴を築いた。国民議会や元老院の議員として活躍し、幾度も大臣を務め、経済問題の専門家として特に第一次世界大戦終結後の復興期にフランスの政界で重要な役割を果たしている。幼い頃から芸術に関心を示していたクレマンテルは、生涯にわたり著名な芸術家たちと交流した。特にオーギュスト・ルノワール(1841-1919)、オーギュスト・ロダン(1840-1917)、アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)、とりわけ共通の親友であったジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)から1910年代後半に紹介されたクロード・モネとは深い友情を育んでいる。彼らは頻繁に手紙をとり交わしており、これらの書簡からはクレマンテルが友人にアトリエ用の石炭や灯油の提供をし、戦争中に鉄道を利用した作品輸送の便宜を図るなど、物質面を含めた支援を惜しまなかったことがうかがえる。また、クレマンテル自身もオートクローム技法を用いる写真撮影を行っていた。これは1904年にリュミエール兄弟が発明し、世界で初めて商業化されて1907年に普及し始めたカラー写真である。彼が庭園に佇むモネを撮影した一連の写真の中には、ジヴェルニーへの定期的な訪問が生き生きと情感豊かに記録されている。オートクロームのもたらす奥行きと透明感がクレマンテルの芸術的感性と相まって、モネが創造した植物による豊かな装飾を余すところなく捉え、自らの庭の中のモネを永遠に留めた。クレマンテルはこの地への深い想いを次のように綴る。
「あなたの最新作を拝見したくてたまりません!親愛なる友よ、あなたはなんと幸せなことでしょう。これほど自然の近くに暮らし、愛情を込めて自然と語らい、その秘密と神秘を汲み取って私たちや後世の人々のために、最も純粋な詩や最も流麗な旋律を超える、永遠で幽玄なる神聖な言葉に翻訳できるのですから。あなたから溢れ出る歓喜の泉はまさに超人的です!悲嘆に暮れた日々でさえも、あなたのおかげで私の書斎を明るく照らす、青と金が織りなす夢のような庭へ続く、開かれた扉に目をやれば、絶えず繰り返される春の喜びのひとときが甦るのです。もしあなたがそれをご存じであったら、私の魂の中にその家の無限の輝きを感じとられたことでしょう」。
++++++++++++++++++++
なお、「クレマンテルのオートクローム作品はオルセー美術館に所蔵されているが、非常に施弱で輸送に耐えられない。ここに展示されている資料は、ジヴェルニーのモネの有名な庭園を記録したオートクロームの複製である。」との解説があった。

作者不詳、ジヴェルニーの自邸の前のクロード・モネ ↓

◼️セクション11 池の中の世界 一 睡蓮
+++++++++++++++++++
「自分の睡蓮を理解するのには時間がかかった。(・・・)最初は楽しみのために睡蓮を植え、描こうとは思わずに育てていた。(・・・)風景というものは、たった一日で私たちの中に染み込んでくるわけではない。(・・・)それから突如として、私は自分の池の美しい魔法に目覚めた。私はパレットを手に取った。(・・・)それ以来というもの、他のモティーフはほとんど描いていない」。こうモネは打ち明けている。1883年4月、この年モネは最終的にジヴェルニーに腰を落ち着けた。1893年2月には、水生植物のある「水の庭」を設ける目的で、敷地の南にある土地を購入。この庭がやがて画家自身の言う「描くべきモティーフ」2を与えてくれることになる。モネが自宅の池の絵を描き始めたのが1895年であるから、ジヴェルニーに引っ越してから10年以上も後のことだった。
(中略)
水の庭は、1895年から日本風の橋で飾られた。1900年前後の西洋の庭園で流行した形式の橋だ。1900年以降、ロンドンやヴェネツィアでの連作や幾点かの独立した静物画をのぞくと、この水の庭と庭の水生植物がモネのもっぱらのテーマとなった。1900年から1926年の間に描かれた450点のうちのおよそ300点、すなわち画家晩年期の作品の4分の3にあたる作品である。「水や水面の反映の風景に取り憑かれてしまった。老いた自分の力には余るものだ。それでも私は、自分が深く感じ取ったものをなんとか表現できるようになりたいと思う」。モネは、友人にして批評家・作家のギュスターヴ・ジェフロワにこう書いている。不幸な出来事(1911年に妻アリス、次いで1914年2月には息子ジャンの死去)による中断の後、1914年に活動を再開。「大きなことに取り組むつもりだ」と語っている。モネは、「睡蓮」のシリーズに関連した作品制作のためのアトリエを造設した。このシリーズは、1918年の休戦を祝って国に寄贈され、モネの死後、1927年にオランジュリー美術館で展示されることになる。このアトリエでモネは休みなく働き、確固たる姿勢の自由達な習作を数多生み出した。
(後略)
++++++++++++++++++++
睡蓮の池、緑のハーモニー、1899年 ↓

睡蓮の池、1907年 ↓
以前、この庭に行った時に解説を読んだはずなのだが、この庭に池を作るためにわざわざセーヌ川支流の水を庭に引いて睡蓮が咲く池を作ったのか、と再認識して、そのこだわり様にびっくりした。
++++++++++++++++++
1883年、43歳頃から、パリ北西のジヴェルニーに住み始めたモネは、1890年に家と土地を購入し、セーヌ河の支流から庭に水を引き、その池で育てた睡蓮をモティーフに、数多くの連作を描きます。その中で、縦長のカンヴァスによる15点の連作の1点にあたるのがこの作品です。描かれているのは、池に浮かぶ睡蓮、水面に映る柳の木と空。水面に映りこんだ景色と水の上の睡蓮が幻想的な空間を生み出し、水辺の空気までもが伝わってくるかのようです。空の光の色あいから、時刻は夕方でしょうか。モネは連作のなかで睡蓮の位置はほとんど変えず、それを捉えた時間による情景の変化を克明に描き分けています。睡蓮の花の季節は5月から9月末まで。モネは暖かい季節に描かき始めた絵を、冬にアトリエで仕上げました。
モネは、パリの北西約80キロ、セーヌ川とエプト川の合流点に位置するジヴェルニーの景色に心奪われ、1883年にそこに移り住みました。最初、邸宅の周りに花の庭を造園しますが、1893年に隣の敷地を購入すると、セーヌ川支流の水を引いて睡蓮の咲く池をつくりました。ジヴェルニーの庭は彼の創造の源泉となり、「睡蓮」連作などの多くの名作を生み出す舞台となりました。
++++++++++++++++++++
なお、この絵については撮影に失敗してしまったので、展覧会公式サイトから画像を拝借している。

出口には、株式会社ブリヂストンの創業者であり、この美術館の創立者である石橋正二郎氏についての説明があった。↓
「世の人々の楽しみと幸福の為に」、全くその通りである。
ブリヂストンを世界に冠たる企業にしたうえで、他にも色々な寄付活動をされており、石橋さんのおかげで、今日も美しい絵を観ることが出来て幸せな気持ちになることが出来た。
石橋正二郎えらい! という感謝の気持ちで美術館を出た。

そして最後は、この本である。
原田マハさんの「モネのあしあと」↓
私は、今回のモネ展に行った後に復習として読んだが、まさにこの展覧会のテーマになっていたモネがたどった道筋とぴったり重なる内容でとても良かった。
予習で読む方が、良いかもしれない。

感謝。
おわり


コメント